狂言誘拐
預かった三枚の一万円札を、事務所の中の両替機で両替した。自動販売機で何か買う場合も考慮し、百円玉も二十枚入手した。事務所から戻ると、まだ給油中だった。タクシーの給油は、普通車にガソリンを入れるよりも時間がかかるような気がする。亜矢子はトイレから戻ってきたときも中野同様、相変わらずサングラスとマスクである。
「マスクのひとが多いから、目立たなくて助かりますね。インフルエンザがまた流行しているんですか?」
「今年は花粉が凄く多いと聞いてるわ。ほんとうに、マスクしてるひとが目立ってる」
「スギ花粉ですね」
杉ばかり植えるからいけないのだと、中野は思う。風景を描く場合も、杉ばかりの山は単調でつまらない。それでも、山のないところよりはいいと、彼は思い直した。
もうすぐ山を見ることができる。そう思うだけで、高揚した気分になっていた。山はただ地表が突出している地形でしかない筈なのに、その姿を想い描いただけで彼はいつも興奮した。毎日山を見て暮らすこと。それが彼にとって、究極の夢であるような気もする。また、蒼く広大な美しい海も、時間を忘れて眺めたい対象だと思う。海も山も見えるところがいい。勿論、それどころではないこともわかっている。人の命がかかっているのだ。
日の出の時刻にスタンドを出発した。周囲がどんどん明るくなって来ると、中野の心はそれとは反比例し、次第に重くなって行く。そうなのだ。既に自分は犯罪者なのだ。あの脅迫状は、もう取り戻すことはできない。
「ねえ。タイヤチェーンはあるの?」