狂言誘拐
亜矢子が借りてきた黒い元タクシー車両は、アパートから百メートル程歩いた場所の、コインパーキングに入れてあった。
そのコインパーキング内に、紅い首輪のきれいな白虎の猫が居た。中野が頭や頬を撫ぜるとひと声、ニャーと鳴いた。亜矢子も中野と同じことをした。
「あらっ。この猫、どこかで見たような気がする」
「パソコンで小説を閲覧する時に、右上に居ますよ」
「ああ、あの猫ちゃんね!」
「プロフ写真の猫でもあります。サイトの『マイページ』の左上に居ます」
「そうなの?あとでじっくり見てあげよう」
「可愛いヤツです。お前も一緒に誘拐されるか?」
中野がそう云うと、猫はまるでことばがわかったように、自分の家の方に向かって小走りで行ってしまった。残されたふたりは顔を見合わせて無言で苦笑した。黒い車のトランクを開けて荷物を積み込むと、中野はすぐに助手席のドアロックをキイで解除した。亜矢子が先に乗車する。中野が駐車料金を精算機に投入してから運転席に入る。
「タクシーを運転したのは初めてだったわ」
中野は今日も乗務するような気分だ。勿論タクシーの料金メーターも、空車表示機器も、防犯カメラもないのだが、基本的にはいつも仕事で乗っている車だった。
「亜矢子さんは、普通、後部座席にしか乗らないでしょうね」
「あっ、面白いもの発見!」
ドアポケットから亜矢子はそれを取りだした。
「ほら、東北地方の地図よ。東北には温泉と、海の幸があるわ」