狂言誘拐
気位の高い乗客ではないことを感じて中野は安堵した。
「シートベルトをお願いします。事故や工事による渋滞がなければ、この時間ですから空いている筈です。高速で行きますか?それとも……」
「高速道路は好きじゃないので……」
乗客は遮るように云った。
「わかりました。桜田通りから参りましょう。ご住所を伺ってもよろしいでしょうか」
「ナビに入れるんですね?」
間もなく赤信号で停まったとき、中野は教えられたばかりの住所をカーナビに入力した。
「あとは眠っていても大丈夫ですが、鎌倉だとかなりの料金になりますよ」
「そうでしょうね。」
そのことばにはあまり感情が込められてはいなかった。それに続けてどう云うべきかを中野は考えた。だが、謝るのも卑屈な気がして黙っていた。余計なことを云ってしまったことを後悔していると、やがて、救いの手が伸べられた。
「……ご本がお好きなんですか?」
カーラジオの上に隙間があり、そこに置いてある文庫本を、女性客は室内灯が点灯した乗車時に目に止めていたらしい。中野は再び笑顔になった。
「駅の長い列に並ぶことが多いので、推理小説を読んでいます」
「お好きな作家は?」
「贔屓の作家ですね……」
彼は思い出して数人の作家の名を並べた。