狂言誘拐
その女性は車道と歩道の境界付近にひとりで立っていた。随分待っていたのだろう、近づくと街灯の光の中で笑顔を輝かせた。年齢は三十代半ばだろうか。気品を漂わせるそのひとは、驚くほど清楚な印象でもあった。乗り慣れているらしく、滑らかな身のこなしで乗車してすぐ、女性客は窓を開けた。よく見るとレストランの入り口付近に、中年らしい男が立っていた。
「さようなら。おやすみなさい」そう、笑顔の女はことばを投げて手を振った。男もにこっと笑った雰囲気だが、無言だったようだ。
「よろしいですか?」と、乗務員は努めて明るい声で確認する。
「はい。鎌倉まで、お願いします」
乗客のその好ましい声とことばが、朝からの不景気風と、様々な憂鬱を一掃した。鎌倉と聞くと中野は鼻歌が出そうなほど上機嫌になり、笑みを浮かべた。夢見心地にさせるほど、乗客の口にしたその目的地は魅力的だった。
中野は心の中で歓喜のことばを叫んでいた。ワンメーターの客を、恐らく三十回以上も運んで支払われる料金の合計額以上を、たったひとりで支払ってくれるのである。
「ご乗車ありがとうございます。湘南のほうの鎌倉ですね?」
乗務員は慎重に確認しながら発進した。「多摩プラ」を「鎌倉」と聞き違えたという話を、彼はずっと前に乗務員の研修で聞いていた。その結果の悲惨さは想像したくもないものだ。
「そうです。道路は空いてますよね」