狂言誘拐
「あっ。やばいことになりましたよ。スーパーに入りましょう」
中野は亜矢子の細い腕を掴んで歩き出した。かなり忙しい歩き方になってしまっている。
「ちょっと厄介なことになりそうね」
「訊かれたらでたらめの住所と氏名を云うしかないでしょうね」
「電話番号も訊かれるわね」
「こんばんは。これからお買い物ですか?」
どきっとした。背後からの中年男の声は、ふたりのすぐ近くで聞こえた。それでも歩き続ける。スーパーの入り口が遠い。水の中を歩くように、歩きにくい。
「止まってください」
自転車の警察官はふたりの行く手に回り込んだ。立ち止まるしかない。
「ふたり共顔を隠してますね」
警察官は明らかに敵意を感じさせる声で云った。
「花粉症だからですよ。夜中だって花粉は飛びまわっているんです」
亜矢子は強気だった。中野は恐怖のために声も出なくなっているような気がする。
「じゃあ、それは外せないということですね?」
「そのほかに質問は?」
「なぜ逃げようとしたのかを聞きたいね」
急に警察官の態度が高圧的になった。
「嫌悪感がそうさせました。警察官はね、善良な市民を護るべきときに逃げたりしてますよね。だから嫌いです。税金泥棒です」