狂言誘拐
その後、暫くはあの男のことばが中野には忘れられなかった。だが、自分が真剣に生きてこなかった、などということは断じてないと思う。誇れるような学歴も、これといった資格もないが、精一杯頑張って生きてきた。必死で仕事を覚え、それなりに努力してきた。真面目なひとだと、いつも周囲からは云われたものだった。しかし、これでもかというように、勤め先の倒産が相次いだ。その点で、ひどく不運だった。
或る会社の採用担当者は、あなたを採用するとうちも潰れそうな気がしますよと、面接のときに云った。数年後、そのことばは現実となった。
緩やかな登り勾配と右カーブだったのが、直線の道路になった。左手の街路樹の奥に結婚式場と高級レストランが見えてきた。ワンメーターの範囲にある最寄りの駅からは、着飾った客たちがそこまで乗車することが少なくない。この時間としては珍しく、今はその辺りに人影らしきものが見える。深夜には低木に代表される様々な物体が人の姿に見え、近づくと落胆させられる。だが、今は確かに人が立っている。
少し眠くなりかけていた中野の頭が覚醒した。胸が高鳴る。五十メートル手前で、予感がブレーキペダルを踏ませた。毛皮のコートの下に黒のロングドレスという女性の姿が、イルミネーションの輝く店の前に、微かな違和感を伴いながら確認できた。そして、案の定、乗車を希望する意志表示としての、軽い合図があった。