狂言誘拐
「おい。運ちゃん!あんた、俺より歳上だな。その歳で勤め人だったら、会社には部下が何人も居るもんだぜ!一戸建ての家に帰ればな、惚れた女房と可愛い子供たちが大歓迎だ!それが当たり前なんだ。ところが、あんたはチョンガーだって?しかも、うだつの上がらねえタクシーの運ちゃんときたもんだ。どうしてそんなことになっちまったのか、親切な俺が教えてやるよ。それはな、てめえが今まで真剣に生きて来なかったからなんだ!だから、そのザマだ!ようく反省しろ。いいか、今日と明日だけでも、心底反省して、これからのことを考えろ。わかったか!」
中野清は怒鳴り返したいくらいの憤りを覚えながらも、仕方なくはいはいと返事をしていた。タクシーの乗務員は、絶対に乗客の気分を害してはならない。それがタクシーセンターの指導だった。
夕闇の迫る赤坂の飲み屋街に入ると間もなく、ひととき静かだった乗客が「おい、止めろ!」と、また怒鳴った。そして「着いたんだからさっさとドアを開けろ!」と、更に大声で叫ぶように云った。本来は料金の支払い後にドアを開ける規定であるのだが、中野は半ばやけになってドアを開けながらも「お忘れ物にお気を付けください」と云った。乗客は車外に出る直前に「釣りはいらねえよ」と云って五千円札を一枚、乗務員に手渡した。メーターに表示された料金は千七百円だった。中野は「いいんですか?ありがとうございます。是非またご乗車ください」と、引きつったような笑顔で礼を云った。