狂言誘拐
長い年月の中で蓄積された記憶を辿れば、印象的な美女が片手程度には思い出せても良さそうなものだが、実際のところ意外にも皆無なのだった。そんな筈はないと、半ば慌てながら幾つかの面影を思い浮かべようとしたが、徒労だった。これから先の人生は、決して長いものではないだろう。だからこそ、亜矢子だけは死ぬまで忘れないだろうと、中野はつよく思った。それほど彼女の容姿、そして良好な雰囲気は、際立っていた。
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色とりどりの大小の文字が、微かに黄ばんだ紙の上に並んでいる。使われたちらしはマンションの広告が多い。あとは宅配寿司とピザ屋のものが大半だった。糊が本棚の中にあったのは、数年前にタクシー会社を移ったとき、履歴書に写真を貼ったからだと思う。
「職人さん。美味しいシーフードカレーができたわよ。福神漬が用意されてるなんて、如何にもひとり暮らしのベテランさんらしいわね」
どういうことなのだろうか。ひと眼でその食事の質の高さを、中野は目で感じ取った。自分で作る素っ気ないカレーライスとは比較にならない程、福神漬の添えられたそのひと皿は美しいような気もした。大きめの色鮮やかな野菜の間に、エビやホタテ、イカなどが点在している。自分が作るものとは随分印象が違うと、中野は感心しながら眺めている。