狂言誘拐
「わかりました。いい機会です。大掃除をしましょう」
男は更に顔を赤らめていた。そして、タクシーの中で怒鳴りちらしていた、あの男を思い出した。確かに、ひとりの人間として真剣に生きている気配は、この部屋にはかけらもない。人間として立派に生きて行こうとは、思っていない。毎日好き勝手なことをやりながら、生きているだけだ。これではいけないと、二十年くらい前には思っていた。だが、それを証明するものは見当たらない。
「これはどこに置いたらいいの?」
亜矢子は自分が持っている物のことを云った。
自分の部屋の中で女の声を聞けることが、不思議だ。これは画期的なことだと、中野は思っている。
「ベッドの上にでも置いてください。臨機応変で行きましょう」
諦めて云われた通りにしたあと、亜矢子は部屋の主からゴム手袋を借りて両手に装着した。そのあとは床に落ちていたちらし類を拾い集め、空き段ボール函にそれを詰め込み始めた。
中野はこの前百円ショップで買ってきた道具を、押し入れから出した。それは延長できる樹脂製の柄の先に、チアガールが持って踊るポンポンのようなものがついている掃除用具だった。その紅くて派手な「はたき」を使い、天井の蜘蛛の巣を巻き取り始めた。