狂言誘拐
「云いますから記憶してください。証拠が残らないようにするべきです」
「それもそうね。じゃあ、お願いします」
亜矢子は眼を閉じた。中野は彼女に催眠術をかけているような気分だ。彼女が中野の住所を記憶するには、数分間が必要だった。中野は少なくとも十回は、自分の住所を繰り返して云った。
「長いわね。どこかのいなかの住所みたい」
確かに長い住所だった。アパートの名称も含まれるのでなおさらだった。
「田舎ですみません。でも、部屋番号を間違えないでくださいよ。そうだ、これを渡しておきます」
仕事中にサイトを見るためにちょくちょく帰宅する彼は、アパートの合鍵をいつも持っている。亜矢子にそれを渡してから、公園内で別れた。その直後、中野は亜矢子から名前を訊かれた。中野はまだ、ハンドルネームだけしか伝えてなかったことに気付いて漸く名乗った。
夕暮れが近づいたことを教える冷たい風に吹かれながら、中野はひとりで下り坂を歩き出した。彼は非常に厄介なことを引き受けてしまったと想う半面、久しぶりに気持ちの高まりを感じていた。失敗して検挙されれば投獄は免れないだろう。だから、絶対に成功してやろうと、彼は決意を固めた。
そのとき中野清の耳には、微かにウミネコの声と大型船の遠い汽笛が、スタートの相図のように聞こえた。