狂言誘拐
中野は衝撃を受けた。めまいがしそうだ。彼はポケットからティッシュを出し、半分をまだ泣いている亜矢子に渡した。そして、自分は鼻をかんでから云った。
「……まあ、とにかく、ホテルで具体的な作戦を考えましょう」
そのとき、目の前の美女がこともなげに云った。
「あなたのお住まいへ行くのは、駄目?」
「私のアパートですか?」
中野は考えてみた。彼の借りているアパートは動きの鈍い老人ばかりらしく、ほかの住人の顔を見ることは極めて希だった。勤め人が多い住宅地の中だから、日中は通行人の姿を見ることも少ない。ホテルの従業員に顔を見られるよりは、アパートの方が安全かも知れない。
「想像を絶する汚さですよ。いいんですか?」
「非常事態です。そんなことぐらい我慢します」
「……じゃあ、住所をお教えしましょう。日中に一緒に入るのは大胆過ぎます」
「これに書いてください。それぞれタクシーで移動しましょう」
カバーが花柄のシステム手帳を渡された。
「私は電車とバスで帰るつもりです」
「はい。これで足りるでしょう。タクシーでお帰りください。わたしが先に入れません」
中野はブランドものの財布から出された一万円札を掴まされた。次いで、急いで住所を手帳に記入しようとしたものの、しかし、思いとどまった。