狂言誘拐
深夜の幸運
東京都港区白金の通称プラチナ通りの暗さの中を、一台の空車タクシーが走っている。時刻はいつの間にか午後十一時を過ぎていた。フロントグラス越しのイチョウ並木は、まだ冬枯れたままだ。朝からワンメーターの乗客が、大半を占めた一日だった。そのせいもあって、彼の心には、今年何度目かの、木枯らしが吹き荒れていた。そして、彼は殆ど戦意を喪失してもいた。
夕刻に「あの男」を乗せたりしなければ、ここまで気持ちが落ち込まなかっただろうと、彼はまた思っている。恵比寿南の理髪店から乗車した、衣服が白っぽい上下の、一見やくざ風の中年男は、赤坂で飲食店を経営しているのかも知れなかった。何人かの使用人らしい相手を、次々と携帯電話で怒鳴りつけていたからである。ことば使いは乱暴だが「面倒見のいい」根は善良な男のようでもあった。しかし、六本木を過ぎる頃には電話の相手に対してよりもきつく、乗務員に向かって怒鳴り始めた。