狂言誘拐
ふたりとも特に指定はしないでお任せにした。黒のパンツスーツを着て、サングラスを外さない女は、夫が経営する不動産会社で経理の一部を担当しているのだと云った。
「大半は雑役係です。つまらない仕事」
亜矢子の家は昔から資産家だったと云う。夫は婿養子だが、不動産の売買などで手腕を振い、貸しビル業なども大々的に始め、この十二年余りの間に家の資産を数倍にしたという。中野は内心「逆玉というやつだな」と思いながら、
「幾つもビルを持っているんですね!ひと棟でも、庶民の夢です」
そう云う中野もサングラスをかけ、ニットの帽子をかぶったままである。
「関西方面にも在るんです。全国では五十三棟も」
「ビルが五十以上!かなりの土地も持っているわけですね……じゃあ、資産百億以上とか?」
それを亜矢子は否定することもなく、ただ、微笑んだように思う。
「じゃあ、これから行かれるわけですね?関西方面へ」
「……そういうわけじゃないの。あとで説明させて頂きます」
「きました!夢にまで見た寿司です。大好物です」
大きな板の上にきれいな寿司が並べられている。
「ここは美味しいのよ」
表情はよく見えないのだが、亜矢子は笑顔で云ったのだろう。
「いただきます!一年振りかも知れません。いや、それ以上かも知れません」
中野はいきなり大きな大トロの寿司を口に入れた。
「美味い!生きてて良かった。という感じです。寿司なのに鳥肌です。昨日は二百三十円の牛丼ミニでしたからね!」