狂言誘拐
「ぼくはアトリエは要りませんから、よろしくお願いします」
小野寺は深々と頭を下げた。
「ダーリン。見なおしたわ。完璧じゃない。この条件で断ったら……」
中野は亜矢子を遮って云った。
「お断りしますよ。私は貧しくても、自由なタクシーが好きなんです」
「そうか。だったら、あの五千万を活用してくれ。海外の風景を描くのが夢だってな。期待してるぞ」
「お父さん。わたしも期待してるわよ」
美里は父の腕に手を載せた。
「いいわね。ベニスの風景を、リクエストしちゃおうかな?」
中野は微笑んでいる亜矢子を、その美しさを再認識するような想いで見た。恐らく、これが見納めだとも思った。
「亜矢子さん。これをお返ししますよ」
中野がポケットから出したのは、亜矢子の運転免許証だった。
「あっ!どうして?どうして中野さんが?」
今までで一番、亜矢子が驚いた瞬間かも知れないと、中野は思った。
「福島の立ち食い蕎麦屋の床に落ちていたんです。この前、これと偽造した委任状を持って、日本赤十字社の本部へ行きました。亜矢子さんの名義で、五千万円を義援金として寄付するためでした」
「震災の被災地への義援金!?やってくれたわね!……そう。代理人というかたちで行ったのね。その場合、確認の電話が来ないかな?ダーリンは受けなかった?」