狂言誘拐
「あれのおかげで、大津波に殺されないで、無事に済んだじゃないの。自分が生きているということに、感謝しないとだめよ」
「こっちに戻って来るのに、ヒッチハイクで五日もかかりました。その間、感謝ということばがあることも忘れていました」
「中野さんもヒッチハイクで!」と、小野寺。
「ところで、どうなんだ。絵のほうに専念する気になったのか?」
「私はこれからも、貧しいタクシードライバーとして、趣味の油絵を描き続けますよ。金というものは、持っていれば良からぬ連中から、ターゲットにされるものです。口は災いの元と云いますが、金も災いの元ですよ。犯罪被害者になりたくなければ、貧しさほど有効な盾はありません。それに、あり過ぎれば余計なことを考え始めるんです。もっと増やそうなんて思ったら、もう悪魔の思うつぼです」
「じゃあ、あの五千万円は要らないと云うのね。わかったわ。その代わり、小野寺さんも込みで、うちのお抱え運転手になってもらえない?」
「俺もそれを考えてたよ。給料はタクシーの百五十パーセント。休日は月に六日。関西へ出張するときは、一流ホテルに泊まらせて、なおかつ出張手当を出す。年二回は寸志も出そう。家の空き部屋で生活してもいい。どうしてもと云うなら、離れを増築してもいい。アトリエ付きのな」
泰三は自信満々といった様子だ。