狂言誘拐
「昔、小説の同人誌で偶然使っていたペンネームです。深い意味はないんですよ」
美里が五人分のコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
「突然だが、狂言誘拐は、俺が考えたことだ」
「あっ!ずるい。あれはわたしが考えたことよ!」
亜矢子が口を挟んだ。
「まあ、それはどっちでもいいことだ。俺はな、あんたが、あれだけの絵を描くあんたが、貧しいタクシーの運ちゃんであることが、我慢できなかったんだ。だから、あの五千万は奨学金でもあるし、絵の代金でもある。これから描く絵の、手付金でもある」
「それがなぜ、狂言誘拐ということになるんですか?」
「あんた、小説も書いてるっていうじゃねえか。そのくらいのことはわからねえか?」
「ミーちゃんからも頼まれたの。あなたは公募展にも全然出さないし、野心というものが
まるでないみたいね。わたしたちはあなたがただ、趣味として絵を描いたり、小説を書いたりしているのを見ると、歯がゆいのよ。たった一度の人生じゃないの。この前だってあの恐ろしい大津波の真っただ中に居て、九死に一生を得たのよ。それはね、神様の意志だと思うわ。生まれ変わったつもりで、あの資金を活用して、第一線を目指してほしいのよ」