狂言誘拐
中野は思わず叫ぶように云った。三月七日に恵比寿から赤坂まで乗車し、中野を怒鳴り付けたあの男だった。
「悪いな。俺にもコーヒーを淹れてくれないかな」
「はい。ちょっと待っててくださいね」
亜矢子が立ちあがると、夫は立たなくていいと云った。亜矢子は座った。
「ミーちゃんに淹れてもらいたいな。味が違うんだ」
慌てて美里が立ちあがり、厨房に消えた。
「中野さん。俺の家はここで、そこのちゃらちゃらした女が女房だ」
「そうでしたか。お邪魔してます。あの節は失礼致しました」
中野の顔は蒼白だった。
「栗原泰三というのが俺の名前だ。俺はな、あのとき既にあんたのことを知っていた」
強面の男、栗原泰三は美里の席を挟んで座った。
「はい」
「実はな、あんたが俺を絵のコレクターにした」
「そ、そうですか?」
「昔、俺は山男だった」
泰三は遠くを見るような眼になった。
「だから?」
「雪山が好きだった」