狂言誘拐
「ごめんなさいね。わたしが忘れたせいで……」
「いいえ。乗務員は乗客が下車する際には、忘れ物がないことを確認する義務があるんです。タクシーセンターとか、会社には連絡されてませんね?」
「してません」
「助かりました。知られるとうるさいんです」
「そうですか……わたしね、知り合いが多いの。サングラスとマスクと、それから帽子をかぶって行きます」
やや気分を害された。彼女にとって中野は、会っていることを誰にも知られたくない相手らしい。彼は半ば報復するようなつもりで云った。
「じゃあ、目印になるように私も顔を隠して行きましょう」
中野は人見知りをするたちなので、顔を露出しない方が楽だとも思った。
「どうぞ、お好きなように」
女の声は明らかに笑っていた。
「午後二時ですね?」
「ランチタイムが、二時までだったような気がしますのよ」
「わかりました。微妙に二時少し前がいいですね」
通話が切れたとき、時刻は午前八時を過ぎていた。中野は自分の携帯電話をバッグの中に発見し、充電のためにパソコンと繋いだ。もう一個、同じものがテーブルの上に並んだ。
五時間だけ眠ることにして、目覚まし時計をセットする。昨日の仕事中、ディスカウントスーパーで買った中国製の、超がつく安物だが、クォーツ時計なので問題なく動作した。
横になると呆気なく、彼は眠りに引き込まれて行った。