黄昏の謳(1)
そういう個別のサインの効力を、予め武具に刻んだルーンを利用して増幅させるのを
俺達人間は、ここ50年かそこらで「付与」なんて呼ぶようになった。
身に着けたものを体の一部として扱う技術なわけで、本人ばかりか武具そのものさえ
硬度を増したり、切れ味が鋭くなったりするから恐ろしい。
しかし、人体にないパーツを外側から継ぎ足して、本来出来ない事をやっているのだ。
あまり無理な使い方をすればすぐさまブッ倒れてしまう。
それでも、この生き急ぎっぷり全開の技術は、全国規模で急速に普及している。
なんせ、便利すぎる。明らかに有無で戦闘能力に差が出てしまう。
相手がこいつを使ってるのに、こっちが抑えて負けたら寿命もへったくれも、ない。
自分の癖さえ分かれば、ルーン文字なんか読めなくても扱えるのも利点だ。
当然、今騎士勲章を持っているような人間なら、まず使ってない奴なんて居ない。
お師匠様のそれも、さぞ洗練されたものだろうよ。
それでも、この横幅21センチの煉瓦の数はただごとではない。
ざっと40個、10秒の間に5個ずつ投げたとして1分あまり。
弾くことに集中しなくては捌ききれないし、付与への集中の方だって切らしたら
一発で剣が曲がって、それ以上は受けられなくなりかねない。
しかも、何しろ煉瓦。高度をつけたら石弓とさして変わらない。
これは凶器だ、こんな何一つ防具を身に着けていない人間に当たったら
とても無傷ではいられない。頭でまともに受けたら間違いなく、死ぬ。
本来こういうもんを弾くのは、盾や兜の類だ。それでも衝撃で相当のダメージを
貰うのは明白だから避ける方が賢明なのに、こいつは全部弾き返すと言った。
おもむろに手に取った煉瓦の重さは、ずしりとその存在感を主張している。
いくら騎士とはいえ、妙齢の女にこんなモンを山と投げつけろなんて
プログラムはどうかしている。どうなってんだ、この職場は。
…いや、待てよ。彼女はそもそも「想像がつかない」。
不可能だと思考停止して、これからソラリスが俺に見せようとしているものを
直視しようとしないのは、誠実とは言えないんじゃなかろうか。
本当に、ソラリスにとっては怪我する可能性さえない訓練内容なのかもしれない。
冗談だったら、からかわれてもいいか。そのくらいはこのジョナサン・カーター
器のでかい男として育ってきたつもりである。
そうだった。そもそも見学ってのは、未知の世界に踏み込むための準備体操だ。
知らないから、見たことないからありえないなんて考えは、貧しい。
知恵熱に焦げ付きそうな額を、空いた左手で持ち上げて彼女の眼を見直す。
笑顔から一転、眼を見開き、真剣な面持ちでソラリスは見つめ返してきた。
言葉にしたわけじゃないけど、「やるぞ!」って感じだ。相変わらず幼さが抜けない。
水銀のように揺れる、オレンジと黄が溶け合う水面(レンズ)。
なるほどね、元から冗談でもなんでもなかったのか。
俺が悪かったよ、そもそもこの人はほとんど人に悪意ってものを向けないんだった。
ふと、ソラリスの背後に一瞬、目の端から流れ込んだ外の風景。
横切った公園の時計台が指している時刻は、午後10時。
背から差し込む光に丸い双眸は輝きを増し、焔の糸が風を受けてさやさやと揺れた。
−−−−−−−−−−−−−−
傍らには、がっしりとした造りのカタパルトが備え付けられている。
防衛拠点の砦にあったとして、なんの遜色もない新鋭兵器だ。
ああ、そうかこいつでバシバシ打ち出せってわけね。
もうなにがあっても驚かねえよ。OKOK、イエス・マム。
眼下に広がる緑のさざ波の上、燃えるような赤い髪を揺らして待つソラリスは
まるで、仕掛け絵本から飛び出すギミックみたいに浮き出して見える。
見直せば見直すほどに、ピクニックにでも来たのかとしか思えない格好――
ただし、右手に握った黒い剣を除いて。
長さは取っ手を含めてソラリスの身長の半分、といったところか。
一般的な長剣と比べるとだいぶ短く、柄の形状が丸い、いわゆるグラディウスの類。
筋力より技術で押すタイプには、比較的軽量で取り回し易いのは想像に難くない。
可憐な出で立ちからして、刺突用の細い剣の方が似合いそうなものだが
もとより乱戦用でないそれらよりは、広刃の方が便利なんだろう。
もっとも、そんなので煉瓦を弾き返すなんて言い出したら本当に悪い冗談か。
硬度に関しては、「付与」の質が高ければどうにでもなるのかもしれないが。
晩餐の時に、俺の身長の大きさに驚いていた彼女自身の背丈はといえば
160cmと少し、だそうだ。さほど大柄ではないが、女性剣士としては申し分ない。
知り合って日が浅い相手と親睦を深めるにあたって、身丈の話はよく出る部類だ。
加えて、でかい男が自分の身長をコンプレックスにしているケースはほぼない。
相手からしても無難な話題で、手探りの段階で触れられることは自然だった。
「どこからでもかかってきなさい、ジャン!」
煉瓦を積み終えるのと時を同じくして、甲高い声が窓から飛び込んでくる。
あのー、どこからでもったって、ここからしか投げようがないんすけど。
この人にいちいち突っ込んでいたら日が暮れてしまうので、ここは言葉を飲み込
んでスルーするのが大人の対応だ。
早速、第1投と行きますか。
掌の皮膚が剥けないようにという配慮か、真横に置かれた手袋をはめつつ深呼吸。
使い込まれて煤に汚れたこいつを見るに、この演習は恒例なのだろう。
要するに、俺の心配はまったくの杞憂なのだ。よしよし、やってやる!
煉瓦を掴んできりきりと弦を引き絞り、視界の赤い一点に狙いを定める。
まるで狙撃手への親切で染めたかのような、煌々とその存在を主張する赤毛に。
「そらっ!」手を離すと同時に煉瓦は空を切り、俺の前髪を吹き飛ばしそうに
鋭い風圧が唸りを上げた。…ひゅう、こいつはやべえ。
コンマ一秒。
ソラリスが右足を軸に独楽の軌道で廻ると、さっきまで煉瓦「だったもの」は
彼女の後方、およそ10メートルの地点にぐしゃりと着地した。
湯にさらした角砂糖が溶けるみたいに、崩れ、砂になり、風に流れていく。
弾く瞬間には、それこそスプーンでティーセットを弾いたように、かつんと
味気ない音しかしなかったから、そいつはますます漂白されていない砂糖にしか
見えないまま芝生に溶けた。紅茶にしろ珈琲にしろ、緑では少々趣味が悪い。
「カタパルトの使い方は心得ているようですね、精錬所で真面目に学んできたので
しょう、ぱちぱち。ジャン、張り切って次々投げちゃってくださいね」
髪を揺らして小首を傾げ、左人差し指で下唇をいじりながらソラリスが微笑う。
なんだこりゃ、なんだよ、こりゃあ。
少しでもこいつをまともな女だと思って、心配してた俺がバカみたいだ。
「っくおおおおお!言ったな師匠、次々やっていいって言ったな今ッ!!」
無性に腹が立ってきた俺は、煉瓦の重さを忘れて次々に弾をつがえる。
ええい、ちょっとタンマとか言わせてやるぜぇえええ!
「ジャン君、もうゆるしてえ」ってな具合に、いつもの間延びした超音波を
涙声に変えることさえ、今の俺は辞さない!とことん、外道になってやる!