黄昏の謳(1)
入っちゃいけないスイッチを入れやがったな、もう知らねえ!
右足の爪先で、灰を固めたような石畳をこつ、こつと二度叩く。
――俺の「付与」起動プロセスはこれだ!
こいつを全身へ伝導させるため、ルーンを彫ったナイフは腰のベルトに下げている。
つまり、獲物がカタパルトでも使える!!
俺の領分は攻防一体、集中力の向上だ。武器を当てるにも弾くにも発現する。
我ながら、隙のない動作かつ汎用性の高い能力で大変よろしい。
鞘の中から、見慣れた菜の花のような黄色が溢れて足元を照らす。きた、これだ。
両腕、両肘、両手首、指先に。脳髄、目の奥、湖面(しかい)に淡い痺れが奔る。
ぴりぴりとした緊張感。流派、俺の戦いの鼓動(リズム)。
何がぱちぱちだちくしょう、当ててやる、当ててやるぞ!!
第二投。もう一発頭を狙う。くるり、こちん、どしゃり。
第三投。左肩を狙う。ふわり、かちん、ぐしゃり。
第四投。外道度不足のようなので、腹部を狙う。するり、こつん、ぼとり。
第五投。ここにきて照準を頭に戻す。ひょい、こきん、かしゃん。
あああああああああああああああああああああああああ!!
まるで、通用していない。
俺の「付与」が不発してるのか?そんなはずはない、腰の短剣で発現も確認したし。
それでも、ガツガツと床を叩く右足が止まらない。おいおい、落ち着けよ、俺。
そうだ、落ち着け。落ち着けってば。
ここから見て、ソラリスは剣を構えてくるくる踊っているようにしか見えない。
柔らかな髪が、ひらひらしたワンピースの裾が、風を呑んではためくと同時に
この上なく物騒な凶器から放たれた殺意という殺意を、ろくに物騒な音をさせ
ずに受け流しては、ことごとく砂糖の塊に変えてしまう。
風車小屋と対に立った、風に廻る緋色の風車(ムーラン・ルージュ)。
絵本の中からやってきたのか、このお嬢さんは。
そういえば、ソラリスの「付与」のスイッチは、何だ…?
「付与」は予備動作だから、構える前にやるのが必然というもの。
となると初弾を弾いたあの回転ではない、ということになる。
それにあの緋色の風の中でも、ルーンの色は目に付くはずだ。
いくら日中とはいえ、彼女の握る両刃は墨に漬けたように真っ黒なのだから。
待てよ、きっとルーンの光も黒なのだろう。それにこの距離だ、見えなくても
…ん?
あの人の剣には、そもそもルーンなんか彫られて、たっけ、か――
超常現象に目を回し、どっしりとした疲労に崩れ落ちる瞬間、窓の向こうには
スカートの端を抓んでお辞儀する彼女の姿が見えた気がした。
−−−−−−−−−−−−−−
カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ、カチ、コチ
秒針が刻む無粋なリズムが耳から流れ込んできて、俺は飛び起きた。
胡乱な頭を揺すって辺りを見回す。
やかましい大小の針が示すのは、午後3時半。
師匠にわけのわからんショーを見せられてから、1時間余りノビていたようだ。
久々に、やってしまった。精錬所の一年坊主の時以来だぞ、こんなのは。
どうやら風車小屋の1階、仮眠用ベッドに寝かされてたらしい。
ここはすっかり人の手がろくに入っていないのが一目見て明らかではあるが
曲がりなりにも風車小屋である。数十年前は管理人が寝泊りし、連日小麦粉を
挽いていたのだそうだ。
言われてみれば、パンを焼く釜戸や使い古した薬缶、煤けた暖炉が目に付く。
田畑は緑に埋められてしまっても、そこに生活の足跡は残されている。
屋敷のある市街地へ持ち主が移住したために、農地ごと捨て置かれた物件を
物置として使うために格安で買い取ったのがここなんだそうだ。
半日も経ってないはずなのに、馬車の中で暇を持て余したソラリスから話を
聞かされたこと自体、遠い遠い昔の記憶であるかのように感じる。
この場に刻まれてきた年月(ひび)が、そんな錯覚を呼び起こすのかもしれない。
古びた生活用品の中にあって異彩を放っているのは、ついさっきの柱時計。
俺にサワヤカなお目覚めを届けやがったこいつは、意匠を凝らした彫り物に
金色のローマ数字が刻まれた文字盤。どこからどう見ても高価な代物だ。
でもなあ…こりゃ、五月蝿い。おまけに、見るからにこれだけ新品同然だし。
針の刻む音が大きすぎて、部屋、あまつさえ寝室に置いておくには不便にすぎる。
きっと我らが領主様が、一目惚れの衝動買いをかましたら使いづらくてどうにも
ならず、それでもって二束三文で質屋に遣すのも気に入ないからと仕方なく
物置に叩き込ませたんだろう。
結局のところ時計なんてものは日用品で、よほどの好事家でない限り丈夫で使い
易いかどうかが一番大事なのだ。少し、可笑しい。
ファーレンハイト家当主、ネーベル嬢はまだ14歳のガキだ。
そういうのが分かるようになるまで、もう少々領主様には年月が要る。
しかしなあ、何が起きても驚かない決意をしてから10分もしないでコレだ。
事前に情報を仕入れていても、やっぱり生で見る衝撃はガツンとくる。
ちょいと情けない気持ちにもなるが、効くもんは効いたんだから仕方がない。
うまいメシ屋の話を伝聞で聞くのと、実際に食べてみることくらい差があった。
どういう人生を送っていると、あんな大人しい人がこうなるんだか。
風貌だけ見れば、近衛騎士などより庭師か世話係の方がよほどイメージに近い。
鼻歌歌いながら花に鋏を、お嬢の頭に簪を差し込んでいる方が彼女には似合う。
同じ屋敷勤めにしても選択肢は多様なのに、他の生き方を選べなかったのか。
…え?
何か、このショックは違った。決定的な違和感があった。
単に理解の及ばないほど強い人間を見るだけでは、こんな風に倒れてしまう程
わけのわからない衝撃を受けるわけがないと、なぜか確信めいた疑問が首をも
たげて、気味の悪さが腹の中を駆け巡る。
――緋色の乙女(ソラリス)は、ああならなければ生きていけなかったのか?
ようやく利き手を頼りに半身を起こし、左手でぼんやりした額を擦りながら
体の節々を捻っているうちに、かつんかつんと階段を駆け下りる音が聞こえる。
倒れている俺が目を覚ますまで、時々様子を見てくれていたのだろう。
上階で待っている人間がいるとしたら、時刻を見る限り、日付さえ変わってい
なければ、それはソラリス以外にあり得なかった。
忙しなく、けれど細い脚で慎ましく刻まれる螺旋のリズム。それがだんだんと
こっちに近づいてくるのに気付くが先か、暖色の洪水が扉を押し開けた。
「起きましたか、ジャン!
もう大丈夫なんです?慣れない生活に疲労がたまっていたのかしら。
2階の暖炉はまだ使えるから、そこで珈琲を沸かしているところです。
飲めそうなら持ってきますから、安静にしていてくださいね」
一見丁寧でありながら、口を挟む隙をよこさぬまま、早口で畳み掛ける彼女の声。
寝起きには辛い、この部屋の時計の針に負けないほど無遠慮な、高音。
どうしてか返事をする気になれなくて、俺は額を抑えて空を仰いだまま
右手をひらひらと振って、上階に戻るソラリスを見送った。
螺旋のリズムはぱたぱた、ぱたぱたと逆再生で遠ざかってゆく。