月見草(ある帰省)
髪を伸ばし、男性化粧品を使い、アイビールックに身を包むことに憧れた。
長距離バスを使ったツアーはその頃から一般化したようであったが、今のように男女機会均等といった考え方がなく、女性のバスガイドの深夜勤務は労働基準法に抵触するものであった。
そのため、深夜の乗客の世話は男子学生などのバイトで当たらせることが多かった。
白の半袖のカッターシャツに例のネクタイをして、バスに乗り込んだ。
事前におおざっぱな仕事の内容についての説明があったが、ようするに目的地までの間に何回かのトイレ休憩がある度に乗客の人数を確認するのが最も重要な任務であった。
「おい、学生。これから挨拶をして乗務員の紹介をしろ、それからなるべく学生のバイトと分らんようにな。ことば使いに気をつけろ。解ったか。」と運転手は不機嫌に命令した。
「はい、解りました。」
「えー皆様。本日は当岐阜バスを御利用いただきましてまことにありがとうございます。、、、、、、」
なんとかなったかなと全てを喋り終えてほっとしたとき
「おー学生、なかなか上手いぞー」
と後部座席の方から大きな声がかかると、車内は爆笑と拍手で騒然となってしまった。
耳まで赤くなったような気がした。
頭を掻きながら、本職のガイドのほうへ視線を送ったがやわらかな微笑とともに「しっかりやりなさいよ、新米さん」といった視線が返ってきた来ただけであった。
このとき、本当にそのガイドがすごい人のように思えた。
バスは深夜の国道をひた走り、今度は睡魔との戦いがはじまった。
運転席のすぐ隣の窮屈な座席に座っていると対向車のヘッドライトがまるで催眠術のように視界をながれ、気がつくと仮眠状態となっていて、何度も運転手に怒鳴られた。
二、三時間おきにトイレのための小休止があり、バスはドライブインなどに停車した。何人かの乗客が降り、伸びをしたり、たばこを吸ったり、トイレに走ったりした。
一〇分ぐらいすると出発時間となり、私は乗客の人数を確認するという唯一の仕事をする。
最初のうちはそれぞれの名前を呼んで確認していたが、深夜になるとそうはいかず、通路の最尾部まで行って人数のみの確認という作業になる。
今度は乗客の半数を占めるカップルの抱擁を見せつけられる羽目になった。
わずかにブランケットから顔半分を覗かせながら、いたずらっぽい微笑を投げかけてくる女性もいる。
ほとんど女性経験のなかったバイト学生は狼狽し、またまた耳を赤くする。
早朝五時、鳥取砂丘に到着した。砂丘センターというところで乗客乗員は少々早めの朝食をとる。
乗客がすべて降りたところで、車内の清掃をするのが最後のバイトの仕事であった。吸い殻、紙屑などを掃き床をきれいにして、いよいよ自由の身である。
「ご苦労さん、お前もあそこでメシ食っていけ。これがバイト代、これが交通費。」
無愛想だった運転手が初めてねぎらいのことばとともに、二つの封筒を手渡しながら、肩をポンとたたいた。
深々と一礼すると、解放感に背中を押されるように砂丘の方へ走りだした。
まだ薄明かりといった早朝の砂丘は砂が焼けておらず、裸足で歩くと本当に気持ち良かった。ネクタイを緩めながら、そのまま夏の日本海の方へ走っていった。
第二章 行商
鳥取砂丘をあとにすると、国鉄の鳥取駅についた。始発の因美線の鈍行に乗り込むと、強烈な睡魔が襲ってきた。
列車内はがらがらであったため、私はボックス席を占領して「L字型」の体勢で三人分の席を自分のベッドにして熟睡してしまった。
小一時間たってから、周りの喧騒に気付いて眼が覚めた。車内はほとんど満員になっていた。自分のずうずうしい立場に気付くのに30秒くらいかかるほど寝ぼけていた。
「あっ、、、す、すいません。」
頭を掻きながら席を空けると、大きな行李を伴った逞しい婦人たちがニコニコしながらボックスに入ってきた。
五十から七十歳くらいのこの婦人たちはこの車両のほぼ半数を占めていて、みな同様に大きな行李を伴っており、日本手拭いであねさかぶりをしてもんぺ姿であった。
残りの半数は高校生であった。
「お兄さん、出張か??」
むかいにすわった小太りの初老の婦人は荷物の一部を解きながら愛想よく尋ねてきた。
「えっ、まあ、そんなところです。」
そうか、このネクタイのせいで社会人にみられたんだな。すこし、嬉しくなった。
「どこから、来ただか? 東京だか? 東京ならオレの息子が大学にいっとるが。」
むりやり東京の会社員にされるところであった。
「あっ、違います。岐阜から来ました。」
「岐阜、、、? 東京の近くだか?」
「えっ、違います。東京というよりは名古屋に近いですけど、、、。」
「、、、、、」
婦人は残念そうであったが私にも東京のことは分からないので仕方なかった。
婦人は気を取り直して荷物のなかから小さな包みを取り出して、新聞紙の包装を解くと、再び笑顔を浮かべて
「これ食ってみろ。うまいぞ。」
と漬け物をすすめてきた。
「おいしいです。」
自慢の漬け物らしく、仲間の婦人たちにもすすめた。みんな相槌をうちながら、コリコリと音を立てた。この逞しい婦人の集団は朝採れた野菜を持って津山へ行商に行くらしい。
みんな活き活きとして、大声で話し、屈託がない。自分の体重より重い荷物も平気だと豪語し、同乗している高校生たちの驚愕の視線を浴びたりしていた。
列車は中国山地の山間を縫うように走る。
車窓は空けはなたれていて心地よい風が入ってくる。
むせかるような緑が夏本番を感じさせる。
鳥取を朝五時すぎに出るこの列車もこのあたりを通るころは通勤通学のための足となっていたわけである。
大学は夏休みでも世間はまだまだ忙しく、高校生も汗だくになりながらこの喧騒ですがすがしい朝の時間を過ごしている。
おそらくこの乗客の中にこんな長距離の旅行者はこの貧乏学生だけであったろう。
日常を満杯にしたこのすがすがしい通勤列車に一人だけこの日常を傍観する自分が居た。
しかし、この感覚は、疎外感ではなかった。
傍観する日常は自分にとって違和感のあるものではなく、なにかしら人間くさい親近感のあるものであった。
小さな駅に停まった。
山にかこまれたほんの狭い平地にその駅はあった。
車窓からは人家が数軒みえるだけである。
きっとあちこちの谷に小さな集落が点在しているのだろう。
それぞれの集落からやはり通勤通学をする人たちがいてこの駅に集うのであろう。
数人の乗客が加わった。
駅長がひとりいて張り切っている。
ピーっと出発の笛を駅長が吹いたとおもったら、こんどは突然
「待て待て、まだ行くな。」
と運転手を制止した。
「待ってーっ」
と遠くのほうから若い女性が走ってくる。
約50メートルぐらいを全速力で走ってくる。
駅長が「大丈夫待っててやるよ」と言わんばかりにその女性に丸めたままの旗を振っている。
息をきらせて女性が車両に乗り込んできた。
他の乗客の誰にというわけでもなく
「ごめんなさい」
と、小さく会釈すると盛んに汗をぬぐった。
小さな拍手が女子高校生の一部にあがった。
行商の婦人たちもさかんに相槌をうっていた。
「出発進行ーっ」