月見草(ある帰省)
プロローグ
大学4年生だった私は就職試験を終えて郷里の九州に帰る夜行列車のなかに居た。
留年したせいでろくな会社しか受験することができず、自身の将来にたいしても明るい希望は抱けずにいた。
単に選択できる会社が三流だという絶望だけでなく、自分自身における無力感と社会に対する不信感とが入り交じり、まだ二十三歳だというのにひどく疲労困憊していた。
この物語は18歳の夏と23歳の夏、つまり青春の入り口と出口を対比することであの時代の意義を再確認する試みでもある。
いわゆる団塊の世代である我々は5年前の昭和四十四年の大学受験のときに壮絶な学園紛争の洗礼をうけ、大学入学と同時に受験一辺倒の価値観を変えざるを得ない若者が多くいた。
高校生のころから高度経済成長がもたらした豊かさに驚き翻弄されながらも何か精神的な反省の必要性があるのではと危惧を感じてはいた。
大学へ入るまでは勉学で身を立てて一流企業のなかで優秀な仕事をして豊かな暮らしを手に入れたい、または、大学で深遠な学問に身を捧げ、学究の徒として生きていきたいと漠然と考えていた。
テレビで放映される学生のデモや機動隊の物々しい装いを何かしら不思議な、自分には無関係な事として傍観しつつ、自分の明るい未来とは別のこととして感じていた。
しかし、入学してすぐにキャンパスで耳にしたのはけたたましいアジ演説と意味不明の闘争用語の洪水であった。
何がなんだか解らないうちにストライキや反戦行動やそれに類する事柄に巻き込まれ、自身でも「階級」だとか「止揚」だとか少しずつ勉強するようになった。
そのような学生生活の中から高校生時代とは全く違った欲求が生まれてきた。
それは、自分の仕事を自分の幸福を得るための手段ではなく、社会参加という価値感で捉えることであった。
つまり自分の幸福と社会に対する貢献というふたつの価値観がぶつかりあい、両者を満足させることを模索し始めたのである。
しかしこんな単純で根本的な欲求ほど実は若干18歳の田舎育ちには難解至極なラビリンスであった。方向を失ったエネルギーはあちこちにグルグル迷いはじめ、またたくまに、生活はリズムを失い、焦躁し、悶絶しながら青春を過ごすことになった。
結局、なんの結論も出せないまま成績不良で留年となり、なんとか5年目で卒業見込みで就職活動を開始した。
この頃になると、自分を規定する価値観というか存在感というか、
「いったい自分はどんな人間だったのだろう?」
「自分らしさとはなんだったのだろう?」
といったことにまで解らなくなってしまっていた。
私は故郷を目指した。
あの九州の田舎町はむかしと変わらず時間が流れているに違いない。
そこで、迷路に入り込んでしまう前の自分に遭遇できはしまいか、、、
その当時、新幹線はまだ充実しておらず、もっぱら長距離の旅行は夜行列車を利用する人が多かった。
しかも、寝台でもなんでもない普通の座席に座ったまま夜を徹して十数時間の窮屈に耐えるのである。
座席を確保できない場合もある。そんなときは新聞紙などを敷いて通路やデッキや洗面所の床に陣取るしかないのである。
幸いこのとき、窓際の席を確保できていた。座席は二人掛けであるが、二人づつが向かいあわせになるような配置であった。つまり、四人でひとつのボックス席になっていた。
私の向側は若い華やいだ女の子の二人連れで、よく喋り、よく食べ、静かなときはファッション雑誌から眼を離さなかった。
私の隣は陰気そうな学生でなにやら難しそうな顔をして本ばかり読んでいた。
女の子たちは向かい合った男達よりはむしろ通路をはさんだ隣の学生と会話をかわしては可愛い嬌声をあげていた。ときどき前の女の子の方言が耳に入ってくるのでこの子たちも九州の出身であろうことが推測できた。たいそう楽しそうである。
きっと同郷の二人が同じ職場か短大かに通っていて久しぶりに帰省するのであろう。私には彼女たちの明るさがとても心地よく、すこし心の疲れが和らいだ気がした。
漆黒の車窓のガラスにもたれるようにしながら、ときどき視界を流れ去る民家の灯りや寂しそうな街灯がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、彼女たちのように意気揚々と帰省の途につくことがあった。
十八歳の初めての夏の帰省旅行のことをふと想い出していた。なにもかもが新鮮で爽快で、人生のプロローグが終わりようやく自立へ向けて羽ばたとうとしていた十八歳の夏。
第一章 夏の砂丘
昭和四十四年、夏、大学生活最初の夏休みが来た。大学の夏休みは7月上旬から9月上旬まで2ヶ月もある。車の免許を取るために利用したり、バイトをしながら旅行をしたり、クラブ活動の合宿があったり、様々な過ごし方がある。
しかし、私は何の予定もないまま休みを迎えてしまった。
というのは、奨学金の給付が7月まで伸びたため、4月からたちまち金欠となり入学早々バイトに明け暮れ、夏休みの計画をたてるようなことは全く頭になかった。
しかし、自分ではその生活が気に入っていた。バイトはぜんぜん苦痛ではなく、それまでの受験一色の生活からは得られない充実感があったからである。
故郷の九州を出られることは実に楽しいことであり、自身の冒険心と自立欲を満たすものであった。新しい生活、新しい友、未体験の様々なことが待っている。
しかも、誰も助けてくれないし、誰にも邪魔されない。
自分の判断だけで生活ができる。
4ヶ月たらずの一人暮らしで、洗濯をしたり、ときには自炊したり、「自分ひとりで何でも自分のことができる」喜びを堪能していた。
しかし、このまま無計画に2ヶ月過ごすのにも抵抗があった。
とりあえず、一度帰省して、親孝行でもしよう。
ところが問題は帰省にかかる費用が三日分のバイト代に匹敵するということであった。
親から帰省費用を送ってもらっては自立心に反する。大学の学生課の掲示板をスキャンしながら効率の良いバイトを探していると、我ながらグッドアイディアが浮かんだ。
長距離バスの助手である。
夕方に岐阜を出発し翌朝早くに鳥取砂丘に到着し、そこでお役御免となる。
鳥取から岐阜までの急行の鉄道料金とバイト代がそのとき支払われる。
つまり、鳥取から岐阜へ還らずに中国山地を横断して山陽へと到り、岡山あたりで乗り換えて九州へと向かえばなんとか帰省費用が捻出できるのであった。
ネクタイ着用が義務づけられていたので大学の生協の売店で安物のニットのブルーのネクタイを買った。友人に締め方を教えてもらい初めてネクタイをする喜びも味わった。
すこし大人になった気分がした。
平成の高校生には想像もできないだろうが、我々の時代では高校生でも全校男子生徒は丸刈りが強要されていた。
とくに九州のような田舎ではこの制度は根強く普及していた。
服装も同様で、学外でも学生服で行動するのが普通であった。高校だけではない、大学生の何割かは日常的に学生服を着用していた。
応援団でも右翼でもなくごくごく普通の「学生」が当たり前のように「学生服」を普段着として愛用していたのである。
したがって田舎出身の我々は髪を伸ばすことや自由にオシャレを楽しむことに強烈な憧れがあった。
大学4年生だった私は就職試験を終えて郷里の九州に帰る夜行列車のなかに居た。
留年したせいでろくな会社しか受験することができず、自身の将来にたいしても明るい希望は抱けずにいた。
単に選択できる会社が三流だという絶望だけでなく、自分自身における無力感と社会に対する不信感とが入り交じり、まだ二十三歳だというのにひどく疲労困憊していた。
この物語は18歳の夏と23歳の夏、つまり青春の入り口と出口を対比することであの時代の意義を再確認する試みでもある。
いわゆる団塊の世代である我々は5年前の昭和四十四年の大学受験のときに壮絶な学園紛争の洗礼をうけ、大学入学と同時に受験一辺倒の価値観を変えざるを得ない若者が多くいた。
高校生のころから高度経済成長がもたらした豊かさに驚き翻弄されながらも何か精神的な反省の必要性があるのではと危惧を感じてはいた。
大学へ入るまでは勉学で身を立てて一流企業のなかで優秀な仕事をして豊かな暮らしを手に入れたい、または、大学で深遠な学問に身を捧げ、学究の徒として生きていきたいと漠然と考えていた。
テレビで放映される学生のデモや機動隊の物々しい装いを何かしら不思議な、自分には無関係な事として傍観しつつ、自分の明るい未来とは別のこととして感じていた。
しかし、入学してすぐにキャンパスで耳にしたのはけたたましいアジ演説と意味不明の闘争用語の洪水であった。
何がなんだか解らないうちにストライキや反戦行動やそれに類する事柄に巻き込まれ、自身でも「階級」だとか「止揚」だとか少しずつ勉強するようになった。
そのような学生生活の中から高校生時代とは全く違った欲求が生まれてきた。
それは、自分の仕事を自分の幸福を得るための手段ではなく、社会参加という価値感で捉えることであった。
つまり自分の幸福と社会に対する貢献というふたつの価値観がぶつかりあい、両者を満足させることを模索し始めたのである。
しかしこんな単純で根本的な欲求ほど実は若干18歳の田舎育ちには難解至極なラビリンスであった。方向を失ったエネルギーはあちこちにグルグル迷いはじめ、またたくまに、生活はリズムを失い、焦躁し、悶絶しながら青春を過ごすことになった。
結局、なんの結論も出せないまま成績不良で留年となり、なんとか5年目で卒業見込みで就職活動を開始した。
この頃になると、自分を規定する価値観というか存在感というか、
「いったい自分はどんな人間だったのだろう?」
「自分らしさとはなんだったのだろう?」
といったことにまで解らなくなってしまっていた。
私は故郷を目指した。
あの九州の田舎町はむかしと変わらず時間が流れているに違いない。
そこで、迷路に入り込んでしまう前の自分に遭遇できはしまいか、、、
その当時、新幹線はまだ充実しておらず、もっぱら長距離の旅行は夜行列車を利用する人が多かった。
しかも、寝台でもなんでもない普通の座席に座ったまま夜を徹して十数時間の窮屈に耐えるのである。
座席を確保できない場合もある。そんなときは新聞紙などを敷いて通路やデッキや洗面所の床に陣取るしかないのである。
幸いこのとき、窓際の席を確保できていた。座席は二人掛けであるが、二人づつが向かいあわせになるような配置であった。つまり、四人でひとつのボックス席になっていた。
私の向側は若い華やいだ女の子の二人連れで、よく喋り、よく食べ、静かなときはファッション雑誌から眼を離さなかった。
私の隣は陰気そうな学生でなにやら難しそうな顔をして本ばかり読んでいた。
女の子たちは向かい合った男達よりはむしろ通路をはさんだ隣の学生と会話をかわしては可愛い嬌声をあげていた。ときどき前の女の子の方言が耳に入ってくるのでこの子たちも九州の出身であろうことが推測できた。たいそう楽しそうである。
きっと同郷の二人が同じ職場か短大かに通っていて久しぶりに帰省するのであろう。私には彼女たちの明るさがとても心地よく、すこし心の疲れが和らいだ気がした。
漆黒の車窓のガラスにもたれるようにしながら、ときどき視界を流れ去る民家の灯りや寂しそうな街灯がぼやけて見えるのを感じていた。
そういえば、彼女たちのように意気揚々と帰省の途につくことがあった。
十八歳の初めての夏の帰省旅行のことをふと想い出していた。なにもかもが新鮮で爽快で、人生のプロローグが終わりようやく自立へ向けて羽ばたとうとしていた十八歳の夏。
第一章 夏の砂丘
昭和四十四年、夏、大学生活最初の夏休みが来た。大学の夏休みは7月上旬から9月上旬まで2ヶ月もある。車の免許を取るために利用したり、バイトをしながら旅行をしたり、クラブ活動の合宿があったり、様々な過ごし方がある。
しかし、私は何の予定もないまま休みを迎えてしまった。
というのは、奨学金の給付が7月まで伸びたため、4月からたちまち金欠となり入学早々バイトに明け暮れ、夏休みの計画をたてるようなことは全く頭になかった。
しかし、自分ではその生活が気に入っていた。バイトはぜんぜん苦痛ではなく、それまでの受験一色の生活からは得られない充実感があったからである。
故郷の九州を出られることは実に楽しいことであり、自身の冒険心と自立欲を満たすものであった。新しい生活、新しい友、未体験の様々なことが待っている。
しかも、誰も助けてくれないし、誰にも邪魔されない。
自分の判断だけで生活ができる。
4ヶ月たらずの一人暮らしで、洗濯をしたり、ときには自炊したり、「自分ひとりで何でも自分のことができる」喜びを堪能していた。
しかし、このまま無計画に2ヶ月過ごすのにも抵抗があった。
とりあえず、一度帰省して、親孝行でもしよう。
ところが問題は帰省にかかる費用が三日分のバイト代に匹敵するということであった。
親から帰省費用を送ってもらっては自立心に反する。大学の学生課の掲示板をスキャンしながら効率の良いバイトを探していると、我ながらグッドアイディアが浮かんだ。
長距離バスの助手である。
夕方に岐阜を出発し翌朝早くに鳥取砂丘に到着し、そこでお役御免となる。
鳥取から岐阜までの急行の鉄道料金とバイト代がそのとき支払われる。
つまり、鳥取から岐阜へ還らずに中国山地を横断して山陽へと到り、岡山あたりで乗り換えて九州へと向かえばなんとか帰省費用が捻出できるのであった。
ネクタイ着用が義務づけられていたので大学の生協の売店で安物のニットのブルーのネクタイを買った。友人に締め方を教えてもらい初めてネクタイをする喜びも味わった。
すこし大人になった気分がした。
平成の高校生には想像もできないだろうが、我々の時代では高校生でも全校男子生徒は丸刈りが強要されていた。
とくに九州のような田舎ではこの制度は根強く普及していた。
服装も同様で、学外でも学生服で行動するのが普通であった。高校だけではない、大学生の何割かは日常的に学生服を着用していた。
応援団でも右翼でもなくごくごく普通の「学生」が当たり前のように「学生服」を普段着として愛用していたのである。
したがって田舎出身の我々は髪を伸ばすことや自由にオシャレを楽しむことに強烈な憧れがあった。