甘夏ほろり
こんなところにこんなにたくさんの向日葵が植えられていたのかと思ったが向日葵特有のなにか魔力に導かれでもするようになにも考えずにふらっとその中に踏み込んだ。何故かその中に埋まりたいという欲望が湧いてきたのだ。
太陽はまだ差し込んではいないが辺りの澄んだ空気は充分朝の生命力に満ち溢れていて、そこに凛として立っている瑞々しい程の金色の花弁を重ね合わせた美しい向日葵はみな顔を空に向けて朝の光を待ちわびている。その太く逞しい痛い程の葉をゆっくり掻き分けて進んでいると、少し先の向日葵が風もないのに少し揺れた。こうして荒らして踏み込んでいるのを禁める為に現れた向日葵のなにかかもしれないと思ったが、間もなく色素の薄い髪の塊が突き出してきて軽やかに揺れる前髪の下には見慣れたアーモンド型の目が僕の姿を映していた。
「おはよう。いつもこんな早起きなの?」
僕の問いに樹里は軽く頷くと、背の高い向日葵を見上げて目を閉じて深呼吸をした。
「この時間が一番気持ちいいから」
そう言われても初めてこんな時間に起きた僕にはよくわからなかったので、何も言わずに黙って、向日葵の黒い顔一面に敷き詰められた種を縦×横で無意識に計算し始めていた。その答えが出て、更に余った半円部の種を計算し、全ての合計を足した僕の頭に何故か向日葵の種の総合計数ではなくて全く違う別の種類の事が小さな穴から這い出てくる糸虫のように突如湧いてきた。それはあっと言う間に向日葵の種を押しのけ、僕の頭の中を占領してしまった。
「・・・樹里のお母さんも、なにか持ってきてくれたりするの?」
僕の口から出た乾いた言葉は、なんだか夜明け前の広大な海面にぽっかり浮かぶ誰かが忘れていった小さな縞の浮き輪のように頼りなくふらふらと漂ってすぐ消えてしまった。樹里にはそれが聞こえなかったのか、それともわざと聞こえない振りをして答えなかったのかはわからないが、僕達2人の間には夜から引き続き鳴いている虫の声がごく控え目に差し込まれるだけだった。口にした僕も別に樹里からなにかしらの返事が欲しかった訳ではないと思う。ただ、なんとなくごく浅い擦り傷のように僕の心に引っ掛かったのだ。
樹里はなにも言わずに、その真っ直ぐな眼差しでただ前方の少し俯いた向日葵に見え隠れする空を見つめていたが、徐に深呼吸をするように唇に僅かな隙間を作った。
「もうすぐ 夏が終わる・・・」
まるで樹里のその言葉が合図にでもなっていたかのように、一斉に朝日の細い帯が幾筋も幾筋も目が開けられない程虹色に輝きながら木々の隙間から向日葵の上から差し込んできて、辺り一面咲き誇る向日葵の花達や幹や葉、その毛深い幹をよじ登る虫達や森の木々や空中に漂うように揺れる蜘蛛の糸を手当り次第に明度の高い新鮮な色で染め上げた。
その神々しい眩しさに僕は思わず片手で顔を覆って目を細めた。それはきっとこんな所に神様の存在があるんだとなんとなく思ってしまう程の圧巻の景色だった。何もかもが必死に呼吸をしてこの光を少しでもたくさん吸い込もうとでもしているのか、或いは嬉しくて踊り出そうとでもしているのかそんな雰囲気が向日葵達も含めたその場の生き物達から匂い立つようだった。目に見えない湯気に包まれて自分の体が透けていくように感じる。
僕はしばらくの間ぼんやりと見とれていた。隣を見ると、樹里はまるで変に白く輝いていて_を伝う涙のような傷跡が白く光ってなんだかとても儚気に見えた。
「樹里・・・」
「こうやって 向日葵や朝の光を綺麗だと思う余裕がまだ私にも残っているんだな」
寂しそうな今にも消え入ってしまいそうな姿に思わず声をかけた僕の言葉を遮って、樹里はそう言った。
「それどういう意味?」
どうしてそんな事を言うのかと思って聞いた問いは目覚め始めた生き物の息吹に消されて樹里の耳まで届かなかったのか、それとも届いていたのかはわからないが樹里はなにも言わずにふと向日葵の下に屈むと見えなくなってしまった。仕方なく僕は忙しなく飛び始めた虫達の羽音に耳を澄ませて上を見上げた。太陽との再会に嬉しそうに揺れる向日葵の頭上にはこの間塗り重ねたような新鮮な水色が何処までも広がっていた。
「随分汚れているな。朝から何処かに行っていたのか?」
廊下で出会した豊は物珍しそうに、軽く泥で汚れた僕の服を見て言った。
「・・・うん。ちょっとね」
「何処に行ってたんだ?」
「おはよう」
聞いてくる豊の後ろから、あのお下げの女の子が恥ずかしそうにひょっこり小さな顔を覗かせたので、思わず僕は反射的に豊の後ろに隠れてしまった。女の子は円らな瞳ではにかみながら_を林檎みたいに紅色に染めて笑っている。
「一緒にご飯食べよう」
またか。と思い豊を見ると背の高い豊は満面の笑みをたたえて小動物のように三つ編みを弄りながらモジモジしている女の子を見下ろし、いいよと軽く言っている。
「でも、豊・・・」
この間ですっかり懲りてしまった僕がなんとか逃れようとして言い訳のような言葉を口の中でもごもごこねくり回していると、聞き慣れた涼し気な声がした。
「通行の邪魔」
小さな欠伸をしながら歩いてきたのは樹里だった。髪の毛が全体的に伸び始めているので後ろで括っているが、僕と違って服は白く綺麗だった。樹里はそのまま僕達を通り過ぎると先に食堂の中に消えた。
「おい、待てよー」
豊が後を追った。残された僕は仕方なく所存なく佇んでいる女の子をちらっと見てから、ため息をついて行こうよと誘った。女の子は朧げに頷くとなにを話すわけでもなく黙ってついてきた。相変らず石鹸の匂いがする。女の子はみんないい匂いがするものなのか? そういえば樹里も初めてすれ違った時に何の匂いだかもう忘れたけど、なにか匂いがしたような気がする。すっかり忘れていたけど、あの匂いはなんだったんだろうな・・・
「それ、なに描いてるの?」
いつものように森で過ごしていたが、あまりの暑さにさすがに咽が渇いたので昼寝している豊を置いて部屋に戻ってくる途中例の女の子に出会してしまった。
「別に・・・」
「見たいな」
例の一件以来なんだか自分に素直になる事にしたのかなんなのか、やけに強気に出てくるので僕はとても困っていた。
「やだね」
「どうして?」
「やだから」
「見せてよ」そう言って女の子はじりじりと僕を窓際まで追詰めてきた。勘弁してよ。後ろは開け放してある窓だ。ここから飛び降りて逃げようかとも考えたが、いかにせ高さがあるし危ない。かと言ってここで見せるのはなんだか負けたみたいだし嫌だな。
「どうして逃げるの?」
「見せたくないから」
その途端強い風が吹き込んで来て、小さな悲鳴を上げた女の子をよろよろと後ずらせ、驚いて目を瞑った僕の手からスケッチブックをもぎ取り、中に綴じた画用紙をご丁寧に一枚一枚をばらけさせながらそのまま下の庭へ飛ばしていった。僕は慌てて階段を駆け下りた。
とろりとした残り少ないネクターの沈殿粕のような夏の空間にぽっかりと彼方此方に口を開けたみたいに白く反射する画用紙は芝生の彼方此方に飛び散らかっている。僕は目眩を我慢して汗を拭いながらそれを一枚ずつ拾っていった。