甘夏ほろり
焼け付くような勢いの弱まっていない太陽の下、それはしんどい作業だった。際限なく吹き出してくる汗がぽたぽたと拾おうとする画用紙の上に滲みを作る。だいぶ拾い集めた気になって、あと少しかと思い気分を軽くする為にふと顔を上げるとまだ遥か遠くで風と戯れている白い紙が蜃気楼のように幾枚も見えてがっかりするのだった。もう諦めようかと思った。
「ほら」
遠のきかけた意識に幻のように聞こえた声に横を見ると、樹里が白い肌に玉のような汗を浮かべながら何枚かの画用紙を差し出している。
「ありがとう」
僕達は随分苦労して森の近くまで飛んで行った画用紙を拾い集めた。
「これで全部?」
「うん。わかんないけど、もういいよ。倒れちゃうよ」
目の前が半分以上真っ暗になりながら、僕は途切れ途切れに弱々しく言った。額の汗を腕で拭いながら樹里も少し顔色を悪くして疲れたように言った。
「水飲んで行こう」
「えっ? 水? あるの?」
それには答えず、樹里は千鳥足の僕の手を引いてずんずん森の中へと入っていった。50歩ばかり行くと不自然な形に抉れた岩があり真ん中あたりから透明な水が滲み出るように湧いていて、手の平に納まるような小さな湖を作り湖から洩れた水が苔むした岩に沿って少しずつ少しずつ下に流れ落ちていた。樹里は躊躇もせずにその水をすくって何度か飲み、ついでに顔も洗った。僕も同じようにして顔を洗って丁度良く冷えて澄んだ水を何度も飲んだ。
「なんだ、何処に行ったのかと思ったら。こんな所にいたのか」
何処からか寝ぼけた声がしたと思うと、羊歯の茂みを掻き分けて不意に豊がぼさぼさ頭を掻き掻き現れた。
「もう夏も終わりなのに暑くてたまらん。咽がカラカラだ」
そう言って豊も水をすくって飲みながら、汗でぐっしょり濡れて呆然と突っ立って画用紙を抱きかかえる僕達の様子を黙って眺めていた。
「雨でも降ってんの?」
降ってないよと僕が返事をしようして口を開けると同時に俄に上から水滴が落ちて来た。怪訝に思って上を向くと、思う存分成長しきった植物の葉から覗く空の切れっぱしが濃い灰色にどんより曇って勢いの良い粒の大きな雫が落ちてきていた。
「さっきまであんなに晴れてたのに・・・」
「夕立だな」同じように空を仰いだ豊が呟くように言った。
隣で空気が動いた気配がしてなんだろうと不思議に思って振り返ると樹里が顔を伏せて崩れたように蹲っている。
「おい。どうした?」
豊が肩に手をかけると、樹里はがくがく震えて身を守るように一気に羊歯の茂みに飛び退いてそこに力なく倒れ込んだ。
「樹里・・・?」
どんどん勢いを増してくる雨の中、振り乱した髪の下の恐怖に引きつったような表情をしている樹里に、僕と豊は尋常な事ではないと感じはしたもののどうしていいのかわからずただ樹里を見つめていた。ため息のような悲し気な声が薄い唇から微かに洩れてきた。
「イヤだ・・・ 雨 怖い・・・」
「雨? 雨が怖いの?」
僕はとっさに手に持った画用紙で何重にも樹里の体を覆い始めた。豊も何処かからモンステラやクワズイモの大きな葉を急いで何枚か持って来て蹲っている樹里の上に被せた。気紛れな雨の勢いはどんどん増してその雫も大きくなっていく。
「大丈夫だ。すぐ止む。通り雨だ」
上でずぶ濡れになりながら葉っぱを幾枚も支えて豊がまるで親が子どもに話すように優しく樹里に言っている。絶えず激しく震え続ける樹里の体を画用紙で覆い尽くして飛ばないように無言で抱き締めながら僕は柑橘系のあの香りを感じていた。この匂いは、確か・・・
夕立はすぐにやんだ。豊が上に被せていた葉っぱを力強く払って取り去ったので僕もほっとして画用紙に包まった樹里を解いた。樹里は濡れそぼりながら赤くなった涙袋をしてあどけない顔をしてぐっすり眠っていた。
待ってましたとばかりに差し込んで来た光がたっぷりと葉先に乗った水滴をプリズム代わりにして反射を始め、彼方此方で小さな虹が上がった。眠っている樹里の_の傷に沿うようにして張り付いている細く長い髪の毛も虹色に染まりまるで反射しているように見えた。
「そんなに本ばかり読んでいて、どうするんだ?」
秋の涼しい風の吹く昼下がり、珍しく樹里が僕達のいつものたむろしている場所に無愛想な顔を出した。相変らず寝っ転がって広辞苑のような分厚い本を林檎を齧るようなシャリシャリした音をたてて集中して捲っていた豊は樹里の顔も見ずに別にとそっけなく言った。が、樹里はめげずにわざわざ豊の目の前にしゃがむとなにか珍しいものでも見るかのようにジロジロと豊に穴が空くくらい眺め始めた。
「どうしてそんなに勉強ばかりしてる? お前も医者になるつもりなのか?」
「・・・恐ろしく勉強してようが、なにしてようが俺の勝手だろ? なにか文句でもあるのか?」
鋭く大きな樹里の視線に堪えられなくなったのか豊が眉間に深い皺を寄せながら半分腹立ち紛れに吐き捨てた。
「いや、別に」
「そんなの樹里が男物の服着ているのと変わらない事だろがっ」
眉間に皺を寄せながら苛々して乱暴に答える豊の言葉にもびくともせずに樹里は表情も変えずに淡々と答える。
「私が男物の服を着ているのは、私だとバレない為なんだそうだ」
「なにそれ。誰にバレない為に?」
画用紙一面を今日の秋晴れの空のようにひたすら青く塗り潰していた僕は視界の隅で2人のこの会話を捕えていたが思わず口を挟んだ。
「ママ」
「そりゃー全く意味ないねぇ。どんな恰好をしてても親は子どもがわかるもんだ。現にこの間だってまんまとバレてたじゃないの」
豊は本を読むのを諦めてつまらなさそうに欠伸をした。樹里はそれもそうだなと、いつになくしおらしく口籠っている。
「医者ねぇ・・・そんな事考えた事もなかったな。父さんを見てるからあんまりなりたいとは思わないけど。でも、もしならなきゃいけなんだったら、俺は大人なんてどうでもいいから断然子どもの医者になるな」
「僕達みたいな子どもを診るの?」
「いや。心の方じゃなくて体の方だけど なぁ・・・けど今は将来の事とかってあんまり考えられない。なるようになるって所もあるし、途中で気が変わるかもしれないしな」
「ああ、それは同感。でも僕は喫茶店をやるんだ」
僕がそう言うと、2人は意外そうな顔をして同時に僕の顔を見た。
「渋いな」
「じいちゃんがやってたんだ。癌で死んじゃったんだけど、じいちゃんの喫茶店は色んな人がいて皆笑ってて大好きだった」
「へぇ。じゃあ是非とも行かなきゃな。チョコみたいに甘い珈琲出してくれよ」
「うん。わかった」
頷く僕の横から樹里が私は苦いのがいいとぽつりと呟く。
「樹里、苦いのなんて飲めんの?」
「飲めない。だけど苦味は大人になれば美味しく感じるものだろう?」
「知らない」
なんだよそれと僕が相変らず無表情に変な事を言う樹里に突っ込もうとすると、俄に豊が起き上がって大きな声で言った。
「おい、走らないか?」
「え? なんで?」
「理由なんてない。3人で全力疾走したくなったんだ」