甘夏ほろり
ひんやりとしたビロードのような漆黒の建物の影の中に駆け込むと同時に、きゃっと言うか細い声がしていい匂いのする誰かに突き当たった。けれど弾みで倒れた床の冷たさに身を任せて、車に引かれた蛙のような恰好でうっとりと体を冷やし始めた僕は誰にぶつかったのか等もはやどうでも良い事だった。
「大丈夫? 立てる?」
聞いた事のない優し気なその女性の声といい匂いに包まれた指に_を撫でられて、僕は目を開けて体を起こした。綺麗な顔立ちをした髪の長い歳若い女性が色っぽく顔を傾げて睫毛に美しく縁取られた黒めがちな目で僕を心配そうに見ていた。その黒曜石のような艶やかな目には見覚えがあったが、ゼリーのような唇や声なんかの全体的には誰だかわからなかった。老女の職員が中年の男性職員と一緒に飛んで来た。
「私は平気です。ただこの子が・・・」
「大丈夫だよ母さん。なぁ大地っ」
豊が女性の脇からひょっこり出て来た。僕は暑さも冷めやらぬままに頷いて職員に立たされた。豊のお母さんだったのか。だから目が同じだったんだなと、ゆっくりと話しながら通り過ぎていく豊の母親と職員、それに少し遅れて頭の後ろで手を組んでついていく心持ち微妙な豊を見送っていた。
「賢い子ですから。大丈夫ですよ。お母様が優しく話かけていらっしゃればいいんですよ」
職員がなにやらセールスのようなアドバイスをしているのを豊は一体どんな気持ちで聞いているのか。
「そうですね・・・」
なんだか不自然な事には、はにかみながら微笑む豊のお母さんは何故か真後ろを歩いてくる豊を振り向きもしないし、目をくれもしないのだ。僕はだんだん豊が心配になってきた。
「じゃあ、今日はこの辺で失礼します」
廊下の途中まで行くと豊の母親がまるで面倒臭押し込みセールスからでも逃れるようにして、そそくさと足早に玄関の方へと歩き出した。不意にそれまで黙っていた豊が怒鳴るように口を開いた。
「おい、待てよ母さん。なんで帰るんだよ。俺の事を連れに来たんじゃないのか?」
そう言ってお母さんの後を追いかける豊に、お母さんはなるべく見ないようにして耳を塞ぐようにして微笑み返すだけでなにも言おうとはしない。
「連れて帰れよ。俺、ちゃんと考えたんだ。母さんの事手伝うから。もうなにも言わないから、黙ってるから、だから・・・だから連れて帰ってくれよ!」
必死に追いすがる豊の言葉はしかし心なく閉じた扉の前で弱々しく白塗りの玄関ホールに響いた。
いつのまにか横にいた職員はいなくなり代わりに樹里が立っていてその様子を猫のような表情の伺い知れない目で静かにじっと見つめていた。そして力なく崩れるようにしゃがみ込む豊の側に行きその腕を掴んで思いっきり立たせると、唖然としている僕の_をつねって引きずるようにして先に立って廊下を歩いて行った。
「泣いてるの?」
音楽室に僕ら2人を放り込み、ピアノの椅子に自分だけ腰掛けた樹里が、床に三角座りをして膝に顔を埋めている豊に聞いた。豊はびくっと肩を振るわせて慌てて頭を振ったが、横でへばっている僕の位置からは豊かの膝頭が濡れているのがよくわかった。樹里がおもむろにピアノを引き出した。ショパンだろうか、何処か悲し気な旋律だ。
「我慢するの 良くない。泣きたきゃ泣けばいいんだ」
そう言って弾き終わった樹里の_の傷は何故か涙を流した後のように生々しく浮き上がっていた。ひたすら下を向いていた豊が、膝頭に唇をくっ付けながらぼそぼそとか細い声で独り言のように話し出した。
「俺の母さん・・・若い時に勤めてた病院で、医者をしてた父さんに口説かれてるうちに妊娠しちゃって、それから結婚して俺を生んだんだ。父さんの家は代々医者の家系で、だから父さんも結婚してすぐに爺ちゃんの病院を任される事になった。忙しくてほとんど家に帰ってこれない父さんに対して、母さんはきっと色々我慢してたんだと思う。家に籠って家事ばかりしていて、だから・・・だから、つまらなくなって浮気したんだと思う。それをたまたま俺が見ていて・・・俺、吃驚してすぐに父さんに話しちゃったんだ。そしたら母さんいきなり俺が最近おかしいからって言い出して・・・俺を、何処かに預けたほうがいいって 言い出して」
「勝手だね」
思わず口をついて出た僕の言葉に、目を赤く腫らした豊といつになく色が薄くなったぼんやりした表情の樹里が一緒に僕を振り向いた。だって、そうでしょ?と僕があっけらかんと続けて言うと、2人共黙って気まずそうな顔をして下を向いてしまった。何処で鳴いているのかメトロノームのように単調な山鳩の声が入道雲がそそり立つ開け放たれた窓の向こうから生温い風に乗ってはっきりと静かに聞こえてきた。
熱帯夜、暑苦しくて点々と寝返りを打って虫の音が聞こえる開け放した窓から外を眺めたりしていると、誰かが扉をノックした。遠慮がちにではあるがすぐに豊だとわかった。扉を開けると黒いタンクトップ姿の豊が団扇片手にばたばた扇いでかったるそうに部屋に入ってきた。
「寝るところか? 俺全然眠れなくって」
「僕も同じだよ。ちょうど退屈してたとこ」
「飲むか?」
そう言って豊は大人のおじさんみたいにトランクスに挟んでいた缶を取り出して掲げる。
「なにそれ? ビール? 僕、飲めないよ」
「いや。ジュース。蜜柑の」
「あ、ならいる。でも、それどうしたの?」
「母さんの差し入れ。毎回ジュースなんだ」
「ふぅーん・・・ そうなんだ」
僕達は生温いベッドに腰掛けて、暑いので電気をつけずに藍色に染まった部屋を眺めて、鈴を振る音のような虫の声を聞きながら代わりばんこに缶ジュースを飲んだ。缶ジュースはオレンジよりも少し酸っぱくて、なんだか夏みかんのようなさっぱりした味がしてとても美味しかった。
「美味しいね。これって、夏蜜柑?」
暗闇の中で豊が缶を持ち上げて検分するように調べてから首を振った。
「違う。甘夏だな」
「甘夏って夏蜜柑みたいなのだよね」
「ちょっと違うけど、まぁ大体そんなもんだろうな。蜜柑なんて似たり寄ったりみんな親戚だ」
それから僕達は何も言わずに黙っていた。僕達の代わりに無数の虫達が草の中で忙しく忙しく羽を擦り合わせて音を鳴らしている。まるで降ってくるような音量だった。しばらくすると暗闇でマッチの小さな火を点けるようにぽつりと豊が口を開いた。
「・・・あいつは強いな」
「あいつって、樹里の事?」
僕が聞くと、豊は黙って深く頷いてからまたぽつりと言葉を吐き出した。
「そう」
「そうかなぁ。僕にはあんまりそうは見えないけど・・・」
そして、再び僕達は蒸し暑いどんよりとした沈黙の空気に覆われてしまった。こんな事、今までついぞなかった事なのにどうしたのだろうと僕は眠さも手伝ってぼんやりと考えていた。
「あいつのあの傷、どうしたんだろうな」
「わかんないよ。でも勝手に色々思うのって何だか陰口みたいで樹里に失礼な気がする」
樹里の真っ直ぐな眼差しをした_に悲しそうに伸びる傷を僕はありありと思い出してそう言ったが、豊は何故か急に少し怒ったような口調でぶっきらぼうに言葉を返してきたのだ。
「お前、随分あいつの事わかってんだな」