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甘夏ほろり

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 橙色の夕暮れの中、僕は母ちゃんの背に背負われて歩いていた。母ちゃんは僕よりもずっと小さい人だったので僕を背負えるとなるとこれはかなり小さな頃なのだなと気付くと同時にすぐにその頃の気持ちに戻った。ススキの白くたなびく河原の道を母ちゃんは小股でせっせと歩く。僕は小刻みに揺れるその肩越しに母ちゃんの顔を覗き込もうとして伸び上がり軽く叱られる。母ちゃんはいつでも一生懸命過ぎるせいか、すぐに僕を叱る。でも、母ちゃんはいつでも僕の為に色々してくれる。出て行った父ちゃんが時々帰ってきては母ちゃんを殴って金をせびり夕飯を買うお金がなくなった時でも青あざの出来た顔で僕のご飯を隣の人に頼み込んでもらってくる。だから母ちゃんは悪くない。なにも母ちゃんは悪くないんだ。
 母ちゃんが気違いのように泣きながら僕を見送っていつまでもいつまでも走りながらタクシーの後を追ってくる。
 母ちゃんそんなに泣かないで。僕は大丈夫だから。それでも涙が止まらなくて僕はしゃくり上げながら、なす術もなく振り返って窓の向こうの母ちゃんの姿を見ている。だんだん小さくなって遠ざかり小指くらいになった母ちゃんの姿が一瞬横から出て来たトラックに押し潰されて消えた。僕は吐気のするような胸騒ぎに襲われて側に乗っている人に止めてくれと頼んだ。けれど、その人は固く瞼を閉じたまま頑として聞こうとはしない。バックミラー越しにタクシーの運転手が心配そうにちらちら見ているが後ろの状況には気付かなかったのだ。
 泣き叫ぶ僕には構わずに、遥か彼方に潰れてしまったかもしれない母ちゃんを残してタクシーはどんどんスピードを上げて走り去っていく。
 誰か・・・! 母ちゃんが・・・あそこに! 車にひかれたかもしれないんだよ! どうして戻ってくれないの?! あそこに戻ってよ・・・僕は母ちゃんの子どもなんだ!
 上品で控え目なノックの音で目を覚ました。寝汗をかいて酷い事になっている。僕は額からまだ滴ってくる汗を寝間着の袖で拭うと起き上がった。ノックの音が続いて聞こえた。今までに聞いた事のない感じのノックのしかたに誰だろうと着替えもせずに扉を開けると、樹里が些か緊張したような面持ちで立っていた。
「どうしたの?」
 僕の問いに樹里は何故か気まずそうに目を泳がせて、豊は?と聞き返してきた。
「わかんない。最近全然会ってないんだ」
 椅子にかけた服に着替えながら僕は簡単に答えた。あの事件以来、豊は僕らを避けるように生活しているのか全く会わなくなってしまったのだ。さすがの樹里も気にしているらしく、とうとうこうして僕の部屋まで訊ねてきたのだろう。僕の答えに樹里は真っ赤になって目を逸らしながら些か肩を落とした。
「そうか・・・」
「今日辺りはきっといるよ」
 そう言って部屋の扉を閉めて、樹里と並んで食堂に向かう道すがら不意に背後からおいと懐かしい声がした。
「置いてくなよ」
 相変らずぼさぼさの頭をかきながら豊が汚れた白い服を着てひょこひょこ歩いてきた。
「なんだよ〜。久しぶりじゃん。何処に行ってたんだよっ」
 懐かしさすら感じられる風貌に僕が笑って声をかけると、ちょっとなと言って豊は隣の樹里に向かってにっと笑った。樹里はなんと返していいのかわからず、目を見開いて真っ赤になって俯いた。
 昼食後の昼休み、僕達は森のいつもの場所に集まっていた。と、言っても樹里はいつもガジュマロなんかの大木の上が好きなので大体はそっちに行ってそこで過ごすのだが、今日は豊に気を使っているのか僕達の気に入っているクワズイモの葉っぱに半分埋もれるようにしてちょこんと座って地面に棒でなにかの記号のようなものを書いていた。そうして見ると樹里はちゃんと普通のおとなしい女の子のように見えた。僕達の着ている揃いの白い服が濃淡の緑色に見え隠れしながら控え目な影を落としている様は、意味もない絵画のようになんだかとても綺麗に見えた。
「俺、あの後ずっと部屋に籠って考えてたんだ。樹里に言われた事とか色々」
 それを聞くと樹里は又しても真っ赤になって気まずそうに深々と俯いて縮こまってしまった。どうやら自分でも言い過ぎたと思って反省しているらしかった。木漏れ日の斑点が踊る薄い影の中、豊は続けた。
「確かに俺は自分の飯を自分で作った事なんてなかった。母さんに任せっきりだったよ。でもそれが母さんに負担をかけてるなんて思いもしなかったんだ。だからこうなったとは思えないけど、それも原因の一部なのかもしれないな。現に母さんは家事に縛り付けられていてちっとも幸せそうじゃなかったなぁと思った。樹里がそれを気付かせてくれた事、俺がそれに気付いた事はきっと良い傾向なのかもしれない」
 僕はただ頷いていた。頷く事しか僕には表現出来なかったからだ。樹里は同じ縮こまった姿勢のまま微動だにせずただ黙って聞いていた。豊はまるで独り言のように話していた。
「俺にも母さんに対して出来るなにかがあるのなら、今からでも遅くはないのかもしれない。もしかしたら。わからないけど・・・」
 何事に対しても単純明快にずばっと自分の考えを通す豊が珍しく迷いながら弱気に言葉を紡いでいる。どうしたのかと豊の様子を観察していると、ふと何処からか豊を呼ぶ職員の声が聞こえてきた。すると豊の顔は見た事がないくらいに緊張して氷漬けにでもされたように一瞬で強張った。
「豊、どうしたの?」
 僕がそう言い終わらないうちに豊は不意に勢いよく立ち上がって、職員の声のする方に羊歯を掻き分けながら乱暴に歩いて行ってしまった。後には豊の立ち上がった拍子に揺らされた立派なクワズイモから恨めしそうに雫が滴っているだけだった。その雫がかかったのか樹里が背伸びをして立ち上がった。
「変な奴」
 豊が消えた方を睨むように素早く見ながらそう吐き捨てると樹里は豊が行った方と反対の羊歯の茂みに差し込むように入り込むと姿を消した。
 僕はなんだかよくわからない気持ちで小さくため息をつくと、スケッチブックを広げて無心になろうと空色の色鉛筆を選んで画用紙を睨んだ。いつの間に来たのか画用紙の端っこにはアオスジアゲハがとまってゆっくりと羽を動かしていた。ここには蜜のある花なんてないんだよ。
 しばらく画用紙とにらめっこをしていると咽が渇いてきたので、僕は諦めて部屋に戻ろうと焼け付くような日差しの下、汗を滝のように流しながら千鳥足で歩いていた。目の前に聳える施設の白い建物がまるで陽炎のようにユラユラ傾いで見えて気分が悪くなる。それでなくても反射してくる光が眩し過ぎる。ルーペを使って燃やされる黒い紙の気分が今ならすごくよくわかる。
 ふと横を見ると乱反射のお花畑と化した芝生の上を遥か遠くから見間違いかと思われる速度で颯爽と歩いてくる人影が見える。見覚えのあるシルエット。樹里だった。樹里はフラフラ歩く僕の横をさっさと通り過ぎると建物の真っ黒く口を開ける通路に吸い込まれるように入っていった。薄情な奴。僕は急に怒りを覚えて残り僅かな力を振り絞って全速力で駆け出した。暑さのせいで脳みそがお湯の中でぐわんぐわん身悶えしているようでやけに手足に力が入らず地面を踏んでいる感覚すらない不思議な全力疾走だった。
作品名:甘夏ほろり 作家名:ぬゑ