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甘夏ほろり

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 汗だくになって森の中を徘徊しながら南東の門がある方向にふらふらと花に誘われる蝶のように進んで行くと、あと少しで森が尽きるという所の羊歯の群生を掻き分けた少し手前に大きなガジュマロの大木があり、音はそこからハッキリと流れてきていた。僕達は細い気根が支えるように幾つも地面に突き刺さっているガジュマロの下に出来た色の濃い涼し気な木陰に迷う事なく入り込んだ。
 明度の違いで慣れなかった目がようやく慣れてくると、細く入り組んだ幹の枝分かれした所にちょこんと腰掛けてあの女の子が銀色に光る星のようなハーモニカーを拭いているのが見えた。低くさと高さが入り交じったような音は切なく響き、風のように吹き抜けて空気のように溶けていく。その爽やかな風は軽やかに髪をそよがせて踊っている。僕達は思わずその気持ち良い音に聞き惚れたまま女の子が拭き終わるまでずっとその場に根が生えたように突っ立っていた。
 曲が終わり、ハーモニカから唇を離した女の子は棒立ちになって見上げている僕達に気付くととっさに睨むような目付きをした。濃いガジュマルの影のせいで彼女の_の傷は殆ど見えなかった。
「なにか用?」
 視線と同じ位に必死で研がれた鋭い刃物のような口調と音程で女の子はゆっくりと口を開いた。
「別に」
 なんと言っていいのかわからずモジモジしている僕の横で怖い物知らずの豊がすかさずさらっと言葉を返した。その突き放すような豊特有の言い方に女の子はむっとしたのか眉間の皺を深くして言い返した。
「じゃあ関わってくんな」
「別にあんたに関わりたくて来たわけじゃなくて、あんたのハーモニカの音に誘われて来たんだ。そんなハーモニカを吹いてたあんたが俺達を呼んだんだ」
「誰も呼んでなんかいない。お前達が勝手に来たんだ」
「どうでもいいけど、あんたハーモニカ上手いのな」
 急に切り返した豊の誉め言葉に女の子はなんと答えていいのかわからなくなって増々眉間に皺を寄せて真っ赤になって口籠った。両手には折られんばかりに銀色のハーモニカがしっかりと握られている。
「あんた、名前は?」
「・・・樹里。 市ノ瀬樹里」
 女の子は木から落ちそうな程深く俯いたままぼそぼそと答えた。豊はそんな様子には一向構わず淡々と言葉を続けている。僕はついていけず汗を拭いながら成り行きを見守る事にした。
「随分綺麗な名前だな。あんたにピッタリだ。だけど、別にここにいる間は名字とは関係なくなるから特に言わなくていい。俺は豊。こいつは大地」
「お前達 兄弟?」
 樹里の言葉に僕は何故か自分でも大袈裟過ぎる程の手振りで大様に違う違うと否定した。豊はそんな僕に見向きもせずにひたすら樹里を射抜くように見つめて言葉を続ける。
「あんた、どうして門が見えるこんなとこにいるんだ? ここらはこの施設にいる子ども連中は誰も近付かない。むしろ避けているんだ。あんた、誰か待ってんの?」
「ママが・・・あの門から 出てった・・・から」
 樹里は門の方を向きながら、思いっきり唇を噛み締めて目の下に皺を寄せながらも苦しそうに途切れ途切れで答えた。豊はそんな樹里を興味深気に眺めていたが、ふと視線を足下に落としてポケットに手を突っ込みながらへぇと興味無さそうにそのくせなんだか悲しそうに呟くと黙ってしまった。
「誰にでも色々 あるよ」
 足が疲れたのでしゃがみながら僕が言った言葉を合図にするようにして、木の上の樹里は再びハーモニカを吹き始め、豊は仰向けに寝っ転がって目を瞑った。蒸し暑い午後の風が少し吹いてきて重そうに木の葉を揺らした。



 クラス選考があり、豊と僕と樹里は別々のクラスになった。それもその筈。それぞれの得意とする科目が全く違うのだ。
 樹里は思いのほか語学や音楽に優れた才能を発揮していた。よく夕方になると習いたての樹里の練習するピアノの音が殺風景な建物の中に密やかなBGMのように日暮しの声に混じって穏やかに流れている。僕と豊は樹里の弾くピアノの上で手作りオセロやチェスをしたりして過ごす。樹里は相変らずスカートを履かず、僕らと同じハーフパンツだったので男の子が3人でいるような図だった。もっとも樹里の喋り方はぶっきらぼうでどちらかと言えば男の子みたいだったから、他の子どもらは気付いていなかったと思う。色素の薄い髪を夕焼けに透かして揺らしながら樹里はいつまでも黒光りするグランドピアノを弾いている。僕らがそろそろ夕飯を食べに行こうと声をかけなければきっと夜中まで、いや朝までだって弾き続けているだろうと思うくらいだ。
「楽しくて楽しくて仕方ないの。止めてしまうのがもったいないから」
 クリームシチュー塗れの人参を口に運びながら樹里は言う。又してもミルク系のご飯にうんざりしている僕達はやる気なく皿をかき混ぜながら或いはパンを千切って投げながらへぇ〜と口を揃えて答えた。
「あんた達って、まるで3歳くらいの小ちゃな子どもみたい」
 その汚らしい食べる気のない僕達の様子を眉間に皺を寄せながら見ていた樹里は冷たく言った。
「牛乳系ばっかりで飽きたんだよ」
「たまには他の飯が食いたいもんだ。これじゃあ囚人と変わらない」
 等と愚痴を零す僕らを冷ややかに見ながらも樹里はぱくぱくと口を動かして皿を空にしていく。
「囚人になった事もないくせによくそんな事が言えるね。あんた達はご飯を作る大変さがちっともわかってない。いくら頭が良くてもたかが食べ物の事で文句ばっか言ってるなんて育ちの悪いただのバカだ」
 樹里がそう言うか言い終わらないかのうちに、豊が樹里の胸ぐらを思いっきり掴んだ。僕は吃驚し吊られて立ち上がった。
「食い物の好き嫌いに育ちの悪さは関係ないだろが?」
「ある。甘やかされた度合い。文句を言う奴は自分で不平不満を作ってんだ。あんた、自分で自分の飯を作った事もないんだろ?」
 軽く持ち上げられているというのに樹里の厳しい表情は崩れない。ひたすらその灰色じみた大きなガラス玉のような瞳で冷ややかに豊を見据えて言葉を続けている。珍しく冷静沈着な豊が感情的になっているのだ。
「あるわけねーだろっ。母さんは俺の飯を作る事が自分の仕事だと思ってた」
「その結果、これだろ?」
 僕が樹里の服から豊の手を外そうとした途端、ぷつんと糸が切れるように豊がテーブルに突っ伏した。その拍子にまだ残っていたシチューやパンの皿がひっくり返り耳をつんざく金切り音と共に遠慮なく彼方此方にぶち巻かれた。樹里はそれを一瞥すると胸元を押さえながら席を立って食堂を出ていった。
 残された僕はとりあえず豊をテーブルから引き剥がそうとしたが、駆けつけた職員の手によって豊と引き離されてシチューまみれの豊は職員に抱えられて例の小さな扉に消えた。しかし、これだけの騒ぎが起きているのにも関わらずどうして食堂にいる子どもらは誰もなにも言わないし、見て見ぬ振りをして何事もなかったかのように当たり前に食事を続けているのだろうと僕はその時初めて不審に思った。
 その夜、豊の部屋の前でいくら待っていても豊は帰ってこなかった。

作品名:甘夏ほろり 作家名:ぬゑ