甘夏ほろり
そう言って立ち上がり爪先だって伸びをする豊につられて、樹里まで膝を叩きながら立ち上がった。仕方なく僕も当惑しながら立って羊歯の葉を掻き分けて歩き出した2人に続いた。
「門の手前のガジュマロの木までな」
森から出た芝生で手足をぶらぶらさせながら豊がそう言ったのを合図に、僕らはそれぞれ地面を蹴りあげて走り出した。スタートが遅れた僕の前にはやはり風を孕んだシャツを忙しなくはためかせて進む豊の寂し気な背中がある。ああ、又だ。僕はキツく奥歯を食いしばった。
でも・・・でも!豊の背中を見つめながら動く手足にじんわりと力を込めた。
「もっと 速く!」
少し前を走っていた樹里が一瞬僕を振り向いたように感じて、そんな声が聞こえたような気がした。もしかしたらそれは僕の頭の声だったのかもしれないけれど。僕は自分の太ももと脹脛に神経を集中して力を入れた。耳元で叫ぶ風の声が大きくなっていく。
もっと速く、もっと速く。もっと、もっと、もっと・・・!そう強く念じた。体が呼応するように動く。バネのようにしなる筋肉。地を蹴る足。_に打っ付かる秋の風は軽くて涼しく、湧き出る水のように気持ち良かった。腕を振る度に新しい力が湧いて来るような感じがした。このまま地球の裏側にだって駆けれる気がした。僕は風になったんだ!そう思って顔を上げるとそこには豊の背中はなく、ただ何処までも広がる鮮やかな空と緑の芝生が続いていた。
背後から豊と樹里が地面を蹴って跳躍する音と荒い息遣いが聞こえてくる。あっと言う間に遠くのガジュマロの木がどんどん近付いてきた。あと少し・・・!
僕が木に触れたのと殆ど同時に怒り狂った闘牛のようになった2人が思いっきり突っ込んできたので、その勢いでぶつかり弾け飛ぶように彼方此方に転がってようやく止まった。
僕らは荒い呼吸を繰り返して、心地よく_を撫でながら髪と木の葉を揺らす風に身を任せてしばらく倒れていた。思えばこんな風に全力で走ったのなんて随分久しぶりだった。
「・・・大地、 お前 ・・・すっげぇ 足、 速いの な」
途切れ途切れに言う豊の言葉がまるでガジュマロのそよぐ葉の隙間から零れ落ちて来る透明な光の粒みたいに僕の耳に転がってきた。
「・・う ん 以外と・・・速かっ た」
僕も初心者がキーボードで文字をやっとこ入力するみたいに切れ切れで返事をした。
「そうやって・・・自分でも 知らない所が・・・ ま だたくさん、あるんだ 俺達に は ・・・それに これから もな」
豊はそこまで言うと不意に野獣の遠吠えのような大声を上げた。多分、激しく息をするのが面倒臭くなってなるべく大きく息を吸いたかったのだと思う。うるさいと横に転がる樹里に蹴られている。それにしてもなんだろう? このスッキリした気分は。走ったからだろうか、今まで覆っていた目の上の大きな出来物が取れたかのように細部まで鮮明に眼球に映る景色と、底までも見下ろせるくらいに澄み切った湖の水のようになった頭で考えた。
けれど、踊る心臓から送り出される熱い血液が体の隅々まで行き渡る音まで聞こえてきそうな軽快な体の前では小難しい疑問等塵に等しいものだった。清々しさの中で感じる事はただ1つ。僕らは生きているんだ。
「・・・ちゃんと、生きているんだな」
どうやら樹里も同じ事を思っていたらしく、独り言のようにぼそっと言った。それに対してようやく息が落ち着いた豊が突っ込む。
「生きてるさ。それどころか俺達はなんでもできるんだ」
「できない事もある」
仰向けになって夢見る調子で豪語する豊を諌めるように樹里が反論した。
「できるさ。可能性は無限なんだ」
「強く願えばな」
「そう強く願えば必ず叶う」
そんな事を言っている豊の顔を見なくてもどんなに目を輝かせて希望に満ちているのかがわかる。けれど、僕は乗り切れない。ふと思いとどまってしまうのだ。
「・・・だといいね」
「そうやってすぐ諦める所は大地の悪い癖だ」
呟いた僕の言葉を拾った樹里がすぐに突っ込んできた。そうかもしれないけれど、僕はあまりに色々な事を諦めと言う形で区切りをつけないとやってこれなかったんだから仕方ないんだ。それとも、諦めなければなにかが変わったのだろうか? 僕にはそうは思えなかった。どれもこれも僕の意思とは違う所で勝手に動いてしまっていて、僕がなにを言おうと何をしようといつも置いてきぼりになってしまう。僕の意思なんか意味がないんだとずっと思っていた。自分の意思を貫き通す事ができるのは、有り余る程多くの愛情を受けながら守られて育てられた事にすら気付かない裕福な子ども達だけなのだと。僕はどう転んでもその仲間には入れない。だから、諦めと言う思いを一種の精神安定剤的な役割として使うしかないんだ。僕は木々の梢を視点の合わない目でぼんやり見ながら、そんな事を一遍に考えた。
「わからない。僕だって諦めたくなんてないけど、でもそうするしかなかったんだ」
「なら、これからは諦めないようにすれば?」
少し離れた所で樹里はむっくりと起き上がると三角座りをして膝の上に頬杖をつきながら、至極当たり前のようにさらっとそう言った。
「・・・そうしたら、なにか 変わるの?」
「大地自身が変わるだろ」それまで黙って聞いていた豊が樹里の代わりに答えた。
「そうやって変わりながら大人になって生きていくんだよ」
「へぇ。 変わらなきゃ大人になれないのか?」
自信満々の豊に対して、まるでそれをへし折ろうとでもするかのように挑発的に樹里が聞いた。なんだか変な会話だな。
「なれない事もないけど、大体大人になるって事自体が変わるって事じゃないか。体とかも大きくなるし、考え方も知識も今よりもっとつく」
「だとしても私は変わりたくなんかない」
「なら変わらなきゃいいんじゃないの。いいよもう。なんでも。なんか言ってて訳わからなくなってきた」
「面倒臭くなって放り出した」と樹里が指摘する。
「だって、俺もわかんないもん」
不貞腐れたような顔をして豊が口を尖らせて変な狐のような顔をしたので、僕は思わず吹き出してしまった。
「あははは!なんだよそれ。ならいいじゃん。どうでも。なるようになるよ」
「それもそうだな」
天高く青色セロファン宛らの空の下、豹の毛皮模様に光が踊る木陰に寝っ転がって林檎のように_を紅潮させた僕らはくだらない事を言い合って笑う。ついこの間、豊のお母さんが来て豊を引き取りたいと申し出て来た。けれど、豊が冬まではここにいると駄々をこねたのだ。お母さんが黙って頷いたらしい。
ここを出たらどんな事が待ち受けているかわからないけれど、自分に出来る事でお母さんを助けてあげたいのだと豊は言っていた。それが良い結果になるかはわからないとも。
「ま、上手くいかなかったらまた戻ってくるから。その時は宜しくな」
僕は力なく頷いた。豊に上手くいって欲しいと思っている自分と上手くいかなければいいのにと思っている自分がいるのがわかったからだ。親のいない僕は実質成人するまでずっとこの施設で暮らさなければいけない。わかっちゃいるが、いつかは帰れる可能性のある立場にいる豊や樹里を羨ましがった事がないと言うと嘘になる。