甘夏ほろり
豊の話からしばらくして、山が赤や黄色の彩りを深め始めた時期にまたしても樹里の母親が施設に不法侵入してきた。が、今回は樹里自身が母親と話し合いを行い、冬までに樹里の母親が付き合っていた男と縁を切る事なんかを条件に出し、それを全部飲めるのであれば帰ってもいいと言ったらしい。
「この傷をつけたのはママの彼氏だ。ママに振られた腹いせ紛れに見せしめの為に。でもそれでママがおかしくなった」
紅葉がすっかり草臥れて乾き意地の悪い冷たい風に揺さぶられ名残惜しそうに枝から離れて地面に降り積もり、日に日に空の色が薄くなってきた晩秋の午後。ガジュマルの木に腰掛けて樹里が_の傷を撫でながら徐に話し出した。
「大丈夫なのかよ。そんなとこに帰って」豊が心配して口を挟んだ。
「大丈夫。自分で選んだ事だから」
樹里は微かに笑い黒光りする門を見た。最近、頻繁に開閉するその厳めしい鉄の門を今日も誰かが里親もしくは実の親に手を引かれて出て行くのを見送った。
みんな去って行くんだなと僕は1人物悲しい思いにかられて黙っていた。僕には何処にも帰る所がない。その時不意に樹里が木から飛び降りて、ぼんやり座る僕の所にすたすたと歩いてきたと思ったらあっと言う間に抱き締められた。柑橘系の匂いに包まれる。
「じゅ、樹里・・・」
「また 会える」
突如として僕の頭に母ちゃんが蘇ってきた。
そうだ。あれは、いつかの初夏だった。太陽が傾きかけていた頃、母ちゃんが甘夏がたくさん入ったビニール袋を持って親戚に預けられていた僕を迎えにきたんだ。母ちゃんは僕を預かってもらったお礼する物がないからと言って、実家から送られてきた甘夏を持ってきて渋る親戚の人に渡した。母ちゃんと2人でうっそうとした暖色が溢れる暑さの残る夕暮れの中を帰る途中、河原に腰掛けて母ちゃんに残った甘夏を剥いて貰ってあの瑞々しい蜂蜜のような橙色の果肉を食べたんだ。親戚にあげてしまった甘夏は1つしかなくて母ちゃんはそれを綺麗に剥いて宝石みたいに輝く身を全部僕にくれた。それは今まで食べた事がないくらいに美味しくて、僕は母ちゃんにもあげようと思っていたのについ全部食べてしまったんだ。
母ちゃんは隣で何処か寂しそうにニコニコ笑っていて、夢中で食べる僕を見ていた。辺りには甘夏の酸っぱいような爽やかな匂いが漂っていて切ないくらいに幸せだった。あの日の、あの時の甘夏の匂いだ。不意に咽の奥にあの時の甘さと酸っぱさが入り交じった蜜のような味が湧いてきたかと思うと、涙が嗚咽と一緒に一気に溢れ出した。
匂いは記憶を鷲掴みにするのだなと感じた。冬の到来を感じさせる枯れ葉混じりの冷たい風が僕達3人の間を吹き抜けていく。
豊は黙って仰向けになったまま葉っぱが落ちて少なくなったガジュマロの木を仰ぎ、樹里はいつまでも泣き止まない僕の背を優しく撫でていてくれた。