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約束~リラの花の咲く頃に終章ⅢLove is forever

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 徳宗と淑妍が同時に莉彩を見つめる。
 横顔に注がれる徳宗の視線が痛いほど感じられた。
「私は国王殿下と共にこの時代で生きてゆきます。もう二度と、現代には戻りません」
 徳宗が息を呑む音がした。
 莉彩は言い切ると、自らの気持ちを落ち着かせようと軽く眼を瞑った。

 徳宗と莉彩はその日の中に村を離れた。わずか半年余りの滞在ではあったが、淑妍の指摘したとおり、この村での日々は莉彩にとっては、あらゆる意味で忘れられないものとなった。
 純朴で善良な村人には、都に住む〝李光徳〟の父親が急病で倒れたため、急遽、都に戻らねばならなくなったと告げた。村の人たちは皆、徳宗や莉彩との別れを惜しんでくれた。
 殊に子どもたちが泣いて見送ってくれたのが、莉彩には何より嬉しかった。
 村を発つ前、二人は村外れの丘に登った。
 聖泰が生命を落とすきっかけとなった場所でもある。
 大きな柿の樹の下に小さな石が安置されている。それが、聖泰の墓であった。誰が見ても路傍の石ころと見間違えてしまうほど、粗末なものだ。到底、現国王のただ一人の王子の墓とは思えない。
「都に戻ったら、人を遣わして聖泰の骨を分骨する。都の王族の墓所に埋葬し直そう」
 徳宗がポツリと呟く。
―大好きだった友達のいるこの村からも離れたくはなかろう。
 徳宗の声が吐息と嗚咽に混じった。
だが、親としては、一国の王子をこのまま都からも離れた辺鄙な場所に葬ったままというのは、あまりに不憫なのだ。正式な王子として王族の陵墓に埋葬したいというのが親心というものだろう。
 莉彩は腕に抱えた菊の花を小さな墓石に供えた。村の子どもたち―聖泰が毎日、一緒に遊んでいた子らが野辺に咲く花を一生懸命摘んでくれたものだ。
 それから、趙尚花が菊で編んでくれた花冠を石の上に載せた。可憐な花の冠は、わずか五歳で逝った王子の頭上に頂く冠にはふさわしい。
 最後に、莉彩は懐から翡翠の玉牌を取り出し、そっと墓石に乗せた。
「聖泰の形見として、玉牌はそなたが持っていた方が良いのではないか?」
 王が問うと、莉彩は淡く微笑んだ。
「この玉牌は聖泰のものにございますもの。取り落として慌てて拾おうとするほど大切なものだったのです。やはり、これは、聖泰がずっと持っておくのが良いと思うのです」
「そうか」
 徳宗は納得したように頷いた。
 聖泰の生まれた日のこと、初めて笑った日、歩いた日、一つ一つの想い出がキラキラした宝物のように輝いている。
 長引く陣痛で二日もかけて生まれた時、あまりの愛おしさに胸が熱くなった。誰も傍についていてくれる人がいなくて、電話したら急いで駆けつけてくれた親友の泰恵にだけ見守られて臨んだ初めての出産。
 ごめんね。何もしてあげられなかったお母さんを許してね。
 でも、たとえ、どこにいても、お母さんは聖泰の傍にいるよ。聖泰もお母さんの心の中で生きているよね。
 だから哀しまない。
 瞼に、あの子の笑顔が甦る。
 莉彩は心の中でそっと最愛の我が子に別離を告げた。


  Full Moon

 年が明けて、都は静かな歓びに包まれた。長らく病臥していた国王徳宗の病が漸く癒えたと公表されたからである。
 徳宗は後に幼い息子が進言したとおり、ネタン庫を開き、王室の財宝を惜しみなく庶民に分け与え、また大臣たちにも王室に倣うように命を出した。このことにより、徳宗はますます徳の高い聖君としての名声が高まった。
 そして、徳宗の傍らには常にただ一人の女人がひっそりと寄り添っていた。孫淑容である。
 徳宗は莉彩に語った。
「予は聖泰の果たせなかった志を受け継ぎ、貧困に苦しむ民をただの一人でも救済したい。あの子が王となって行うはずだったことを、あの子の代わりに行いたいのだ」
 莉彩には王の言葉にこめられた真摯な想いが痛いほど伝わってきた。
 賑やかな商家が軒を連ねる往来を抜けると、都の外れに出る。更にあまり客も入らぬ小さな店が幾つか欠けた櫛の歯のように並ぶ小道を抜ける。その先には名前も知られぬ小さな川にかかる小さな橋。
 今、莉彩はその橋のたもとに立っていた。
 頭上には紫紺の空に蒼ざめた満月が上っている。
 すべての景色が夜の底に沈み、ひそやかに鳴りを潜めていた。
 二十一世紀の現代日本にもここによく似た場所があることを、莉彩は知っている。
 かつてはよく通っていた場所、見慣れた風景。
 でも、もう二度とその場所を通ることも見ることもないだろう。
 莉彩はゆっくりと小さな橋を渡った。
 鮮やかな緋色のチョゴリと緑のチマを纏った莉彩はどこから見ても、この時代の女性だ。
 結い上げた艶やかな黒髪からそっと簪を外す。徳宗と莉彩を幾つもの時代、はるかな時の流れを越えて引き寄せ、結びつけたリラの花の簪である。
 ひとすじの月光が花びらの部分にはめ込まれたアメジストをきらめかせる。
 莉彩は橋の上に佇み、しばらく音もなく流れる川面を見つめていた。
 やがて、その手から輝く光を放ちながら、きらめきながら一輪の花が水面に向かって落ちてゆく。そう、それは光り輝くリラの花。
 莉彩をはるかなこの時代へと運んできた簪は今、役目を終えて深い水底へと沈んでゆく。
「お父さん、お母さん、さようなら」
 最後の別れの挨拶だけは韓国語ではなく、日本語を使った。でも、多分、生まれ育った国の言葉を使うのはこれが最後になるはずだ。
 今となっては、父母にたった一度でも聖泰を見て貰ったこと、彼等に孫の死を知らせずに済んだことだけがせめてもの救いであった。
 親不孝な娘であることは判っている。でも、莉彩はこの時代で生きてゆくことを自らの意思で決めたのだ。
 愛する男と生きてゆくことにもう迷いはない。
 莉彩の前髪に落ちたひとすじの髪が川面を渡る風に揺れた。



 臨莉彩は第九代朝鮮国王徳宗の寵愛を独占したといわれる女性である。だが、何故か、徳宗の后妃一覧に臨莉彩の名は残っていない。徳宗の死後もなお生き存えた莉彩は、都から離れた山奥の寺に籠もって尼となって晩年を過ごしたと伝えられる。
 徳宗は生涯を通じて子宝には恵まれなかった。ただ一人、夭折した王子が存在したとされ、実際、死後、追尊された(生前には王子として認められなかった)王子泰徳山君の名が記録に見られるが、王子の生母、出生についてはいまだに謎である。
 徳宗の寵愛を一身に集めた、ただ一人の側室である臨莉彩が泰徳山君の母だとする説もあるが、真偽のほどは定かではない。一説には莉彩は自ら望んで記録から自分の存在を示す記述の一切を抹消したと伝えられる。
 正史に名前が残っておらぬ以上、臨莉彩の存在が果たして実在の人物であったかどうかは疑わしいが、徳宗王の時代に生きた吏曹判書孫東善が私的な日記に、〝臨淑容〟即ち臨莉彩の名を書き残しているのだ。
 東善は徳宗王の比類なき友人であり、また、臨莉彩が彼の祖父の養女となったいうのが事実であれば、莉彩にとっては義理の甥という立場になるから、かなり信憑性の高い記録ともいえる。
 目下のところ、臨莉彩の存在は、あくまでも伝説上のものとして捉えられているにすぎないが、その存在を主張する歴史家も数多くいるのは確かである。