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約束~リラの花の咲く頃に終章ⅡLove is forever

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 莉彩の眼に涙が溢れ、頬をつたう。
 二年前の日々が甦る。夜毎、徳宗に酷い抱き方をされ、絶望の底に突き落とされた。でも、今、徳宗の顔を見た瞬間、やはり自分はこの男をずっと心から求めていたのだと判った。
 あれだけ夜毎、身体を蹂躙されても、あのときでさえ憎み切れなかった男なのだ。どうして、今更、嫌いになどなれるだろう?
「私がお側にいては、国王殿下のお進みになる道の妨げとなります。ゆえに、私は自ら身を退く覚悟を致しました」
 二年前、莉彩が苦慮したのは、徳宗への己れの気持ちだけではなかった。あの頃、四年もゆく方知れずとなっていた間の莉彩の動向を、大臣たちがしきりに取り沙汰していた。また聖泰がその間に国王以外の男と通じて生んだ不義の子であるとも専らの噂となっていたのだ。
 あのまま莉彩が宮殿にとどまっていれば、いずれ近い中に大臣たちが莉彩と聖泰の処遇について騒ぎ立て始めただろう。そうなっては、徳宗が窮地に立たされることになる。彼はいかなる手段を講じても莉彩母子を守ろうとしただろうが、国王ですら朝廷の意見を軽んじることはできない。
 仮に徳宗が朝廷の総意に逆らえなかった場合、莉彩と聖泰は何らかの処罰を受ける。最悪の場合、死罪となっても不思議ではない。当時、姦通は女性にとっては、それほど重い罪とされていた。ましてや、側室とはいえ、莉彩は国王の妻なのだ。
「私と息子の存在が殿下にとって重荷となっていることは判っておりました。私たちがいることで、折角上手くいっている朝廷と殿下の間に不要な波風が立ってはなりませぬ」
 あらゆる意味で、自分の存在は徳宗の妨げとなる―、そう判断したからこその別離であった。
「それなら! 私はただの男になろう。そなたのためなら、私はすべてを棄てる」
 徳宗は手を伸ばし、莉彩の頬を流れ落ちる涙の雫を拭った。
「殿下、それだけはなりません!」
 莉彩の眼からはとめどなく涙が溢れ出した。
「私が―最も怖れていたのは、私という存在が殿下の治世の曇りとなることだったのです。お願いでございますから、二度とそのようなことは仰らないで」
 徳宗が莉彩を引き寄せ、その髪に顎を埋めた。
「莉彩。私はずっと考えてきた。そなたのために、私は何をしてやれるだろうとそのことばかりをずっと考えてきたのだ。私と生きるためには、そなたはすべてのものを―これまで暮らしてきた時代、両親、あらゆるものを棄てねばならぬ。だが、私はそなたにだけ棄てることを強いるばかりで、自分は何一つ棄てようとはしなかった。自分の生まれた時代に暮らし、育ってきた環境から抜け出すことなど考えたこともなかった」
「あなたさまは国王殿下におわします。私などのような者とはお立場が違うのです」
「立場が違う? そのようなことが何だ、最も大切なものを選ぶためには、何かを棄てねばならぬものだ。同時に二つを選び取ることはできない。―そなたを永遠に失うくらいなら、私はすべてを棄てる。王位、玉座、この国をも棄てる。そなたと共に田畑を耕し、名もなき民の一人となって、ここで生きよう」
 そういえば、と、莉彩は臨淑妍の言葉を思い出していた。
 あれは確か莉彩に孫大監の養女となるよう勧めるために淑妍が入宮したときのことだ。自分の進むべき道について懊悩する莉彩に淑妍が言った。
―二つの中(うち)のどちらか一つだけを選ばねばならないとしたら、所詮は二つとも選ぶことはできないのですからね。両方を得ようとすれば、どちらも手に入らずに終わってしまうものです。
「でも、私などのためにそのような怖ろしいことが―」
 莉彩が泣きながら首を振ると、徳宗は莉彩を力一杯抱きしめた。
「そなたのためではない。莉彩、私自身のためだ。私自身が強く望むからこそ、すべてを棄て、そなたと生きる道を選ぶのだ。そのことに悔いはない」
「殿下」
 莉彩は徳宗の胸に頬を押し当て、泣いた。
 自分は何という身の程知らずな、大それたことを愛する男にさせてしまったのか。
 聖君とまで呼ばれた偉大な国王をその玉座から引きずり下ろし、名もない農夫として一生を送らせるなど―。そのような大それた所業はたとえ国王その人が望んだとて、天も御仏も許しはすまい。
 莉彩は幸せに浸るよりも、むしろいずれ下されるであろう仏罰を怖れた。
 だが、ここまで言う男に最早、何を言うこともできない。一人の女としては、これほど幸せなことはない。愛する男が自分のために何もかもを―一国さえも投げ打つと言っているのだ。
 その時、再び表の扉が勢いよく開いて、元気な声が響き渡った。
「ただいま」
 まるで鉄砲の弾のような勢いで、男の子が部屋に飛び込んでくる。
「お母さん(オモニ)、産みたての卵を趙(チヨン)さんところのおばさんが良い値で買ってくれたよ。これで今夜はお母さんに栄養のある粥でも作ってあげられ―」
 聖泰だった。五歳になって、幼児から幾分、少年らしい、しっかりとした身体付きになっている。同じ年頃の子どもよりは背は高い方に違いない。顔立ちは五歳よりは二、三歳は上に見えるほど大人びて、しっかりしていた。
 彼は嬉しげに母親に報告しかけ、ハッとして見知らぬ男を見上げた。
 その黒いあどけない瞳はどこまでも澄んでいる。曇りのない眼には当惑が浮かんでおり、全く見知らぬ赤の他人を見る眼に、王の胸にやり切れなさと哀しみ―、怒りが一挙に押し寄せた。
 恐らく、二年前は幼すぎて、あの頃の記憶は彼の中には残ってはいないのだろう。
 王の瞼に、地面に家族の絵、〝お父さん、お母さん〟と書いていた幼子の姿が甦る。
 可哀想に、どれほど淋しかっただろう。
 どれほど、父親に逢いたかっただろう。
 自分はこれまで、この子に何一つ父親らしいことをしてやれなかった。
 今からでも遅くはない、この子に、息子に父として何かをしてやりたい。
 徳宗は息子に近づくと、両手をひろげた。
 眼を丸くする子どもを逞しい腕に閉じ込め、きつく抱きしめる。
「お母さん、このおじさんは誰なの?」
 聖泰が不思議そうな表情で莉彩を見た。
「聖泰のお父さんよ。遠いところから今、やっと私たちのところに帰ってきて下さったの」
 なお、聖泰は戸惑った様子で莉彩と徳宗を交互に眺めている。
 ふいに徳宗に抱きしめられた聖泰が不満の声を上げた。
「おじさん、痛いよ」
 徳宗が破顔する。
「そうだな。済まない」
 それでも、徳宗はやっとめぐり逢えた我が子を腕の中から出そうとはしなかった。
 
 その夜、親子三人で初めて食卓を囲むことになった。賑やかな夕飯を終え、聖泰が床に入ってから、莉彩は徳宗がいないことに気付いた。
 ふと不安を憶え、居間を見ても厨房を見ても、彼の姿は見当たらない。おかしなものだと自分でも思った。昼間、自分のために玉座を棄てないで欲しいと泣いて訴えたくせに、こうして彼の姿がちょっと見えなくなっただけで俄に不安になり、狭い家中を探し回る。
 徳宗は家の前にいた。猫の額ほどのささやかな庭に佇み、空を仰いでいる。
「殿下(チヨナー)」
 背後から呼ぶと、徳宗が振り向いた。
「その呼び方は止めてくれ。外聞をはばかるし、第一、農夫にはふさわしくない」
「―本当によろしいのでございますか?」