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約束~リラの花の咲く頃に終章ⅡLove is forever

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―この玉牌はとても大切なものにございます。これは、王子さまが朝鮮国王の血を受けた御子であること、この国の正統な世子(セジヤ)であることを証明する品にございますゆえ、何があっても、落としたり無くしたりなさってはなりませぬ。
―はい。
 事情は判らぬなりに、聖泰は玉牌がとても大切なものなのだとは理解したらしく、素直に頷いた。
 玉牌とは、身分の高い人が持つ飾りで、一種の身分証明書の代わりとでもいえようか。
 大妃は、どれほど都から遠く離れようと、聖泰がこれを持っている限り、徳宗の子であるという証を与えたのである。
 利発げにこっくりとした聖泰の頭を孔尚宮が撫で、莉彩に深々と頭を下げた。
―どうか、道中、くれぐれもお気を付けて。
 莉彩は外出用のコート(外套)を頭からすっぽりと被っていた。この時代の朝鮮では、女たちが外出する際には、大抵、このコートを着用する。
 コートを着た莉彩は聖泰の手を引き、都を覆う深い闇の中へと吸い込まれるようにして消えた。
 あれから二年。大妃が餞別にとくれた巾着には、翡翠の腕輪が幾つかと、珊瑚の指輪が入っていた。どれも高価なものばかりだった。莉彩はその中の腕輪三つを売って金に換え、道中の路銀に充てた。残った腕輪一つと指輪は大妃からの形見として大切に今も取っている。
 あのお金のお陰で、路銀ばかりか、この村で暮らしてゆくようになってからも随分と助かった。何しろ腕輪一つで庶民が一年は暮らしてゆけるだけの値打ちがある―と最初、小間物売りに腕輪を見せて聞いたときには、莉彩は仰天した。
 大妃は莉彩を憎んでいたはずだ。なのに、気前よく莉彩にそのような高価な品を惜しみなく与えた。
―憎んでいたとしても、殿下は私の息子だ。
 そう言った大妃の表情が今でも忘れられない。
 遠いまなざし、どこか淋しげな口調だった。
 多分、大妃も淋しかったのだろう。良人である前国王からは疎んじられ遠ざけられ、たった一人の娘さえ夭折し、誰にも心を開く人がいなかった。その淋しさが妬みという形となり、更には憎悪となって徳宗やその生母に向けられたのだ。
 この村を落ち着き先に決めたのは、都から適度に離れていること、更には滅多と他所者が来ないことだ。この期に及んでも、莉彩は都から途方もなく離れた場所にゆくことはできなかったのだ。せめて徳宗の住まう都からさほどに離れてはいない場所で暮らしたいと願い、この小さな村の住人となった。
 本当なら、大妃の言いつけを守り、都からはできるだけ離れた地方で暮らした方が良いのは判っていたのだけれど。
 莉彩と聖泰が暮らすのは、村外れの小さな藁葺き屋根の家だ。煮炊きのできる小さな厨房と居間、寝室と三間ある。村長が賃貸ししているこの民家は、愕くほど安く借りられた。
 莉彩はここで村の子どもたちに字を教えたりしながら、家の庭で自分と聖泰の食べる野菜を作り暮らしている。二匹だけだが、つがいの鶏も飼っていた。村は貧しく、皆が農民だ。子どもを学校に通わせるだけの金もなく、一家が飢え死にせぬようにするのが精一杯といったところだった。
 莉彩は向学心はあるが学校に行けない子どもたちのために、小さな教室のようなものを村長の家で開き、字を教えた。親たちは貧しいため束脩(授業料)は払えないが、その分、自分たちで作った米や野菜をくれるので、莉彩はそれを収入に代わりにして息子と二人で慎ましく暮らしていた。
 都で暮らす民たちも皆、生活苦に喘いでいるのを莉彩は実際にこの眼で見てきた。しかし、都から離れた農村では更に貧困は深刻な問題であった。自分たちが食べてゆくだけの収穫もないのに、都の貴族たちは彼等から不当に年貢を搾取しようとする。国王も大臣も都の民の困窮はある程度知ってはいても、こんな鄙びた農村の悲惨さまでは知らない。
 いつの時代でも富める者は果てしなく富み、貧しい者はとことん貧しい―というのは変わらないようだ。
 かといって莉彩には彼等のために何をどうすることもできず、ただ子どもたちに字を教えてあげるだけだ。が、学問をすることは生きてゆく力になる。字を憶え、計算ができるようになれば、都に出て商人にもなれるだろう。むろん、学問を修めただけで未来が開けるなどと楽観すぎることは言わないけれど、何も知らないよりは人生の可能性や選択肢が増えてくるのは確かだ。
 子どもたちが将来、生きてゆく上で何らかの形で助けになればと莉彩は考えていた。
 表の戸がカタリと開いた。聖泰が帰ってきたのかもしれない。
「聖泰(ソンテ)や」
 莉彩は息子の名を呼んだ。
 二人だけでいるときも、莉彩と聖泰は韓国語で会話するのが当たり前になっている。不思議なことに、現代からこの時代に飛び、更に莉彩も聖泰も日本人であるにも拘わらず、時を飛んだその瞬間から、韓国語がまるで母国語を操るように自然に口をついて出てくる。
 現代日本にいるときには、そのようなことはない。あれほど巧みに喋っていたハングルもまるでちんぷんかんぷんになってしまう。それが、タイムトリップの不思議なところだ。
 二人でいるときも、この時代ではハングルを使う方が自然な感じがする。
「聖泰や、帰ったの?」
 返事がないのを訝しみ、莉彩はもう一度呼ぶ。
 寝室の扉が音を立てて開き、莉彩は眼をまたたかせた。てっきり息子が帰ってきたとばかり思ったのだけれど、どうやら客人らしい。窓から差し込む初夏の陽光を受けて、背の高い男が立っていた。
「どなたさまですか?」
 男の立つ位置は丁度逆光になっていて、眩しく顔が定かには見えない。莉彩は眩しげに手のひらを額にかざした。
 鐔広の帽子は、顎紐の代わりに玉を連ねている。品の良い仕立ての薄紫の上下、かなりの身分のある客のようだ。莉彩の視線がふいの客の上から下までを辿る。
 もしや―。
 その可憐な顔が強ばった。
 途端に心臓が音を立てて鳴り始める。
 客がおもむろに帽子を取った。
「あ―」
 莉彩が唇を震わせる。
 国王―徳宗がひっそりと陽光の中に立っていた。戸惑いと混乱、恐怖が莉彩の眼の中を慌ただしく通り過ぎてゆく。その中に歓びがなかったことが、徳宗をどれだけ落胆させたかを莉彩は知らなかった。
「何故、私に子どものことを言わなかった!?」
 王は怒りに端整な容貌を朱に染めている。
「私は、そなたに無情にも棄てられたと思ったのだぞ。聖泰が私の子であると何ゆえ、私に話さなかったのだ!」
 王が怒りを爆発させるのを見て、莉彩は布団の上で縮こまった。
 彼は今や身を乗り出すようにして、怖れと怒りに身を震わせている。そして、〝愚か者!〟と叫ぶなり、震える手で莉彩の頬を包み込んだ。
 王の眼に涙が溢れて光っている。
「いつかも申したではないか、そなたの前では私は一人のただの男でいたいのだと。私はそなたを愛し、必要としている。そなた以外の女など要らぬ。そなたは私であり、私はそなたなのだ。そのそなたを、私が求めぬはずがないではないか。そなたが黙って王宮を出ていったと知ってから、私は地獄の苦しみを味わう羽目になった。そなたを恋い慕うあまり、醜い嫉妬に狂い、酷い仕打ちをした私をそなたはもう嫌いになってしまったか? あんな卑劣な男は金輪際、許せぬか?」