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母と歩けば

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 アリソンは少し震えのある手で、勢いよく紅茶をカップに注いでくれた。大きな身体を椅子にあずけると、ずり下がった度の強い眼鏡を人差し指で押し上げ、以前と変わらぬ笑みを向けた。
 ツナやハム、チーズや卵、レタスなどの具がどっさり詰まったサンドイッチをほお張る。ナイツブリッジにある日本料理店でバイトしていたときの出来事がいくつか思い出された。
「やっぱりおいしいね。絶対売れると思うんだけどなあ」
「息子もいつも言ってたよ。ママは警察なんかに勤めてないで、サンドイッチ屋やったほうがよっぽど儲かるよって」
「でも、そうしなかった」
「そう、それはね」
 アリソンがしわくちゃの太い指を突き立てたので、「知ってるよ」とあわてて言った。
「あたしがサンドイッチをつくるのは、食べてくれるあんたが喜ぶ顔がちゃんと見えてるから。ただのサンドイッチの製造マシンになんてなれないよ、でしょ?」
「そのとおり。あんたはうちに来た学生の中で一番出来が悪かったけど、あたしの言ってたことわかってたんだねえ」
「十回以上も同じこと聞かされれば、さすがに覚えます。というか、それしか覚えてないかも」
「そうかい、じゃあ、あたしの名を言ってごらん」
「ミセス・サンドイッチ」
「ほうら、やっぱりあんたは出来の悪い子だ」
 アリソンはぼくの腕を力強くたたきながら豪快に笑った。この人はもう八十を超えているが、きっとまだまだ元気にやっていけるだろうと思った。
 母は自分よりずっと年上なのに快活なアリソンを見ていると、気分が明るくなるようだった。一人暮らしでさみしくないのかねと母が言うので代わりに訊ねた。
「旦那は五十のときに心臓発作で死んでしまってね、もう三十年以上一人。息子家族もあたしの故郷のスコットランドにいるからめったに会えないわね。でも、毎日楽しいのよ。わかるでしょう、学生のために食事つくって洗濯して、教会の集まりにも出かけなきゃならないし、助けを必要としてる人にどうやって援助できるか、みんなで話し合って、そして実行する。まだまだ、やることがたくさんあるのよ」
 これも下宿していたときに聞いた答えが返ってきた。
「あなたはまだ若い。あたしなんかより、肌のつやだってずっといいじゃない。まだまだ人に必要とされて働くことができますよ」
 アリソンの声の大きい陽気なしゃべり方がおかしいのか、にこやかな表情をしている母にそう伝えた。アリソンは母が心を病み、今も薬をやめられないことなど、もちろん知らない。
「歩くのが少し大変そうだけど、大丈夫なのかね」
 母の問いを英語に直すと、アリソンはふっと笑った。
「足だけじゃなくて、耳も目も年々悪くなってきてるけど、それでいいのよ」
 ティーカップをつまみ上げると、ぐいっとあおるようにして飲みほした。「どこも悪いところのない人は勘違いしちゃうでしょう、私は正しい、人の助けなんていらないって。それって孤独でしょ。ねえ、それはひどいの、恐いことよ。なのに本人は、それに気づかない」
 アリソンの言ったことをそのまま日本語に置き換えただけだったが、母はそれを自分への肯定的な言葉として受け止めたのか、何度も頷いてみせた。
 下宿していた当時のことを思い出してみると、アリソンは妙に勘が鋭いところがあった。もしかしたら、母が病を抱えていることに感づいているのかもしれない。
 ぼくはティーポットに残ったお茶をそれぞれのカップに注ぎ足した。母はサンドイッチの端を齧るようにして、少しずつ口に運んでいる。
 玄関に据えられた骨董のような大きな柱時計が荘重な鐘の音で三時を告げた。一人で住むには大きすぎるこの家には今、スイス人とポーランド人の語学学校生が下宿しているという。昨年、共に過ごした仲間はみな国に帰ってしまった。誰もが折にふれ、ここでの時を思い起こすことがあるのだろうが、親を連れて再訪したのは自分一人だろうと思った。
 高木がそびえる広い庭には色とりどりのチューリップが風に揺れていた。それをバックにアリソンと母に並んでもらった。大柄なアリソンは自然と小柄な母の肩を抱き、首を少し傾ける。母ははにかんだような笑みをこちらに向けた。
 ずっと昔からの友だちみたいだ。そう思いながら、ぼくはカメラのシャッターを切った。

 
 開放病棟に移った母は、以前医師に向かって神様がどうとか言っていた女性とホールで話をしているところだった。
 ホールは病院の入り口から階段を上がった正面にある。看護婦の詰め所を通り、錠を外してもらって入っていた閉鎖病棟とは明らかに空気が違っていた。張り詰めた緊張感がなく、患者たちが二、三人で雑談している風景は一般の病院と変わらないように見える。気軽に「こんにちは」と会釈してくる人もいた。
「あら、息子さんと旦那さん。いいわね、毎週来てくれて」
 母としゃべっていた女性は警戒心のない微笑を向けてきた。
 ぼくと父があいさつすると、彼女は愛想よく「こんにちは」と返してきた。その視線はぼくの身体を通りぬけ、その背後に向けられているようで、目が合うことはなかった。
「さとちゃんのとこだって、きのう旦那さん来てたじゃんよ。ほらあ、すごく背の高い声の素敵な旦那さん。みんな帰ったあとで噂してたんだよ」
「やだあ、全然素敵じゃありませーん。噂って、それお姉さんが一人でしてただけじゃなーい?」
「違うよ、そうじゃないの」
 母は急に声をひそめた。「さとちゃんの旦那さんって木田先生じゃなかったんだって、みんな言ってたんだから」
「きーだ? やーだあ。きーだ?」
 二人は笑った。その笑いはどこかしら湿った影の部分を含んでいて、たとえば学校帰りの女子高生が気になる男子の話で盛り上がっているときのような乾いた明るさは感じられなかった。  
「奥さん元気になったでしょ。きのう卓球大会があったんですけど、うまいんですね。勝ち残って男の人といい試合してたんですよ」
 通りがかった年配の看護婦が話しかけてきた。
 卓球がうまい? 
 確かに、小学生の夏休みだったか、伊豆あたりの旅館に泊まったとき、家族でやった卓球で、意外に母が強かった記憶がかろうじて残っていた。 
「そうですか。じゃあ、だいぶ良くなってるんですね」
 父は安堵したように息をついた。
「落ち着かれましたよ。みんなで外に買い物に行ったり、焼き物もつくったり。向こうに展示してあるのご覧になってません?」
「いや、気づかなかったな」
「ああいうのお好きみたいですよ」
「そう……ですか」
 焼き物が好き? 
 父にしてもぼくにとっても、卓球よりもさらに意外な話であった。でも、わからないこともなかった。 
 若い頃はダンスやスキーも楽しんでいたようだし、料理や裁縫も得意。着付けを習っていたこともある。元来、好奇心旺盛で、けっこうなんでもこなせるタイプなのかもしれなかった。母親を純粋に一人の人間としてみる機会がそれまでほとんどなかっただけだという気がした。
 卓球も焼き物も、それが「自由であるはずの開かれた日常」でではなく、「不自由なはずの閉じられた非日常」で母が楽しんだというのは、なんとも皮肉な話だった。
「あ、看護婦さん、あたし手紙書いたんで、持っていってほしいんですけどお」
作品名:母と歩けば 作家名:MURO