母と歩けば
一時間足らずで、船はグリニッジに到着した。ここに来るのは二度目だ。四年前、ケンブリッジにある英語学校に通い始めた頃、スペインやイタリアからの留学生たちと遊びにきたことがある。
昔、インドや中国から茶葉を運んだ立派なカティ・サーク号を眺めつつ、芝生の緑がみずみずしい公園を歩き旧王立天文台をめざした。
そこには地球を西半球と東半球に分ける子午線があり、観光客が写真を撮っている。その子午線を基準にかつて世界の標準となるグリニッジ標準時が定められた。
「ここ何なの?」
「子午線だよ」
ぼくは説明を省いてそう答える。
「あの世とこの世の分かれ目?」
母は不思議そうな顔をした。「死後線」という文字がすぐに浮かぶ。
「それって……、どっちがあの世なわけ?」
「あんた知ってるんでしょ。どっちなの?」
「二人ともここで生きてるんだから、向こう側があの世だろうね」
「また適当なこと言って」
母はさすがに納得しなかった。
「そんなに恐ろしい線じゃないから、みんなと同じように立ってみて」
順番が来て子午線の上に立った母にカメラを向けると、後ろにいた学生ふうの女の子が二人並んだところを撮影してくれた。タイから遊びにきているという。
「あなたのお母さんでしょ? そっくりね」
彼女はにっこりしてカメラを返した。
母にそれを教えると、
「誰が見てもそう思うんだねえ。小学校のとき授業参観に行くとさ、初めて見る子もすぐ『あれ、ショウちゃんのお母さんでしょ』って言うから嫌がってたもんね」
と、古い話を持ち出した。確かにあの頃、男であるのに母親と瓜二つというのが、どうにも恥ずかしかった。
天文台の立つ丘からは、大きく広がる緑の絨毯と、博物館や大学などの古い建築物、そしてテムズ河の対岸に延びる街並みまでが一望できる。
「時間よ、止まれえ!」
あの夜、目覚まし時計の針に指先を向けて叫んだ母の声が、またよみがえった。
あのとき母は、なぜ時間を止めたかったのだろうか。妄想の中で時限爆弾を爆発させないためだったのか。あるいは、このまま年をとることへの恐怖だったのか。あるいはまた、若い頃の時間に追われた生活を葬り去りたかったからなのか。
「写真きれいに撮れたかね。あんたと二人で撮った写真なんて最近ないもんね」
「そうだね」
「いい風が吹いてくるね」
「寒くない?」
「平気。あんたは?」
「大丈夫、寒くない」
「お昼どこで食べるの?」
「どうすっか。何食べたい?」
「やわらかいものがいい」
子供には歯医者通いを強いておきながら、自分は極度の怖がりで虫歯を放置し続けた母はすでに入れ歯で、硬いものが苦手だ。
「中華は食べきれないね」
「あれは失敗だった」
昨晩のことを思い返して、ぼくは苦笑した。中華なら母もくつろげるだろうと思い、ホテルにほど近いチャイナタウンにあるこぢんまりした店に入ったのだが、店員のおやじは単品の注文を受け付けてくれず、コースにしろと言う。仕方なく従ったら、小食な二人ではとても食べきれない量で、小さなテーブルが運ばれてくる皿でみるみる埋まっていく様に、ついにぼくも母も笑いだしてしまったのだった。
「まあ、適当に歩いてみるか」
「そうだね。急ぐことないもんね」
薄い雲に翳っていた陽が、再び辺りを照らし始めた。
「あんたたち何食べてんの、毎日」
一週間ぶりに見る母は目の下にくまができ、ぎょっとするほど険しい顔つきになっていた。
母が入院してから、食事はぼくと父が協力し合ってつくるようになっていった。献立を決めておき、仕事から早く帰ったほうが台所に立った。ふだん包丁など握ったことのなかった父も、そうそう毎晩レトルトものや出来合いの総菜ばかりでは味気ないと思ったようで、やがてカレーをつくったり、魚や肉を焼いたり、野菜を炒めたりするようになった。ただ煮物だけは母のようにうまくいかないといってすぐに断念した。
休日は、昼はたいてい病院の近くにあるラーメン屋に寄り、夜はコンビニの弁当で済ませることが多かった。
病院の食事はどうかと母に問うと、「冷たくておいしくない。味付けもおかしい」と不平を言った。
「隣の部屋の人がさ」
ベッドで横になったままの母は急に小声になった。「のぞきに来んのよ、そこの窓から。おっかない顔して、こっち見てんの。あの人、うちの近所にいた人だよ。知ってるもん。あんたたち知らない? 買い物に行くとよく見かけたんだよ。なんでここにいるんだろうね。怖くてやだよ。早くうちに帰してよ」
入り口の扉のほうを見やったが、人の気配はなかった。
「犬がうるさいでしょ。ワンワン吠えて。ずっと鳴いてんの。うるさくて寝れやしない」
確かに病院の裏手にある駐車場で、犬の声を聞いたような気がした。
頭が痛いのか、母はこめかみの辺りを両手指で押さえ、まぶたを固く閉じてしまった。
医師の言うとおり、だいぶ落ち着いてきてはいるものの、話の中身はどこまで事実かつかみどころがない部分もあり、頭痛や不眠も解消してはいないようだった。
「きゃあー、やめてえ、痛い、痛ーい!」
廊下に出ると、小柄な三十歳前後の女性が、医師の手をふりほどこうとしながら金切り声を上げていた。
「先生の言うことは聞かないとだめですよ」
若い看護婦が女性の肩をたたく。
「私はね、私はどこもおかしくないの。この人がクスリ、クスリって、そんなことばっかり言って、それでここから出られないんじゃない。私は勉強しなくちゃならないんだから、もうほっといて」
「あなたがここまでよくなったのはぼくが出す薬を服んできたからだよ。それはわかるでしょう?」
「違うの。私は毎日、毎日、神様に手を合わせて拝んできたの。それで神様とお話ししてきたから……もう病院はいいって、そう神様も言ってるから……」
女性は医師の前に立ちながら、その視線は宙空をさまよっている。生気のない顔の上でくちびるだけが独立した生き物のようにわずかに動き、唾液の泡を吐き出し続けている。
その傍らを、年老いた女性が髪を両手で掻きむしり、何事がつぶやきながら、三人のやりとりにはまったく無関心な様子で通り過ぎていった。パジャマ姿の青年は白い陶器のような顔で、黙々と廊下や窓枠などを雑巾で拭いて回っている。
病院を出ると、春の陽光が目にしみた。あたたかい南風にほっとする。かすかに何かの花の香りと、土のにおいがした。
なぜ、ここに母を置いていかなければならないのだろうか。訳がわからなかった。
「おまえ運転してく?」
「うん。どうせ、またラーメン屋でビール飲むんだろ?」
「へへへ。一人で飲んじゃ悪いけど、それが楽しみだからな」
十代の頃はその軽薄さゆえにあまり好きではなかった父のだらしない笑い顔を横目に、ぼくは車のエンジンを始動させた。
「さあ、ゆっくりくつろいで。遠慮しないで食べてちょうだい」
アリソンばあさんはサンドイッチを盛った大皿を、ぼくと母の前にどんと置いた。
「ショウがレストランに働きに行く前に、サンドイッチを持たせたもんですよ」