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母と歩けば

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「ちゃんと食べてるんだろうね」
「適当にやってるだろ。たまにはお母さんのありがたみがわかっていいんだよ」
 顔中にひげを生やしたガイド役のおじさんが冗談でも言ったらしく、周りに小さな笑いが起こった。クイーンズイングリッシュに混じって、ドイツ語やイタリア語が聞こえた。
「毎日毎日、ご飯つくって、掃除して、洗濯して、買い物行って、あんたたちの面倒も見て、そうやってお母さんがうちのことちゃんとやってきたから、ミチオだって安心して働けて、あんたたちだって大きくなったんだよ」
「ほんとは働きに出たかったんじゃないの?」
「そうだよ。結婚するまでは仕事、楽しかったもの。これでもけっこうみんなに頼りにされてさ。家事だってしながら働く自信があったのに、ミチオがだめだって言ってさあ。うちに閉じ込められたままきちゃったわよ。まったくねえ」
 陽光に目を細めた母の顔はあくまでおだやかで、うらみや憎しみといった重たい感情は微塵も感じられなかった。 
 ぼくと兄が中学生だった頃、母と父は毎日のように口論をくり返し、家の中は暗かった。父が居間のふすまをぴしゃりと閉める音、ボリュームを上げたテレビから響く笑い声。それに対抗するように台所では母が「くさくさするねえ」と声を張り上げ、ため息とあくびがない交ぜになったような「ふぁーあ、ふぁっふぁっふぁっふぁっふぁー」という妙な節回しのついた声を連発していた。ぼくは耳をふさぎ、この場から消えてしまいたいと念じ続けるしかなかった。
 夏休みのある晩、夜勤で父がいないとき、ついに離婚を決意したらしい母に、どっちについていくのかと急に迫られた。台所の椅子にかけた母が、居間にいるぼくと兄のことをじっと睨むように見つめていた。母は頭がおかしくなったのかもしれないと思った。その目があまりにも恐くて、ぼくはくちびるをわずかに動かすことさえできないでいた。兄も黙ったままだった。網戸の向こうから休むまもなく、すだく虫の音だけが耳の奥まで押し寄せてきていた。
 ここでもし、二人のどちらかを選べば、家族四人は分解してばらばらになるのだと思うと泣き出したい気持ちになった。これまでずっと四人だったものが、もし明日からそうでなくなるとしたら、もう生きていくことはできない気がした。
 結局、その後、父と母が別れることはなかった。いつのまにか、離婚届だの、判を押すだの押さないだのといった際どい言葉は聞かれなくなり、烈しい言い争いも鎮まっていった。
 いさかいの原因は、母が働きに出ることを許してもらえないという単純なことだけではなかったとは思う。祖父、つまり母にとって父親との突然の死別と遺産相続をめぐる強欲な姉妹との確執も影響を与えていただろう。その頃の母は苦しい思いをどこにも吐き出せない、精神的に追い込まれた状態にあったのではないだろうか。
 どこでどう折り合いをつけたのか、やがて母はおとなしく家事に専念するようになったが、実はそうしている間に、徐々に精神が蝕まれていたとは、まったく想像すらしていないことだった。

 
「出ーた出ーた月がー、まーるい、まーるい真ん丸い、お盆のような月がー」 
 隣の部屋から、母の歌声がずっと聞こえていた。なぜ、そんな歌を歌うのか、さっぱりわからなかった。まるで子供にかえったかのように大きな声で歌っているのを聞いていると、幼かった頃の母との思い出がいくつも頭をかけめぐった。
 熱を出して学校を休んだ日、かかりつけの医者に行ったあといつものパン屋に寄り、ねじりパンを買ってもらったこと。ざらめがたっぷりかかっていて、食欲はなかったはずなのにとてもおいしかった。友だちと暗くなるまで遊んだ日に、ジャンパーを片手に迎えに来てくれたこともあった。夕焼け空の濃いオレンジと遠く西に連なる山並みの黒い影が恐いくらいに美しかった。
「いいから、もう静かにして寝ろ」
 朝までおれがみるからと言った父の声が、歌の合間に聞こえた。並んで一枚の布団に入って、歌い続ける母をなんとかなだめようとしている父。そこはあくまで夫婦の空間であって、息子のぼくがどうにかできるものではなく、父に任せておくほうがいいような気がした。
 長い夜が明けると、ぼくは会社を休み、父と一緒に近くの大学病院に母を連れていった。アメリカのシカゴに住んでいる兄には一段落してから連絡することにした。
 母はじっとしていることができない様子で、車の中では、ぼくの眼鏡を奪ってかけたり外したり、庭から取ってきたらしい沈丁花の花をくるくると回したり、匂いを嗅いだりしていた。
 なぜか、しゃべってはいけないと言いたげに立てた指をくちびるに当て、何か書きたそうな仕草をしてみせた。紙とペンを渡すと、「赤い屋根」「白い車」などと目にしたものを書きつけていく。後で見たら、それらに混じって「ウソ」という言葉がいくつも記されていたが、その真意は皆目わからないままだ。
 病院には主治医がおらず、別の医師が診察した。緊急入院が必要だという。あいにくベッドに空きがなく、隣接する市にある病院を紹介された。
 その病院は街道沿いにある小さな丘の上にあった。
「こんな知らないとこになんで連れてくんのよ。入院なんかやだよ。うちに帰る」
 怒った表情でつかんだ腕をふり払おうとする母を、父と二人でなだめすかした。
「しばらくここでゆっくりしてれば、またよく寝られるようになるから」
 本当にそうなるのか、自分でもわからないまま、そんなことを言うことしかできなかった。
 母が入った部屋は、玄関から階段を上がった右手にある看護婦の詰め所(ナースステーションなどというきれいに整理された空間ではなく、せまくて薄暗くて雑然とした、まさに詰め所であった)を通り、内側から錠を外してもらわなければたどり着くことのできない場所にあった。小さな輪から棒が伸びたような形の古風な鍵を鍵穴に差し込み、がちゃがちゃと回す音と、ぱちんといって錠が外れる音が、看護婦らが出入りするたびにくり返される。胸の奥が乱暴にかき回されるような、とても嫌な音だった。
 その、消毒臭い外界から隔離された病室で、暴れる母はベッドに拘束されながら、注射を打たれた。廊下ではスウェットを着た青年が、焦点のずれた生気のない目で足をひきずるようにして、行ったり来たりを続けていた。どこかから、呪文のようにしゃべり続ける女性の単調な声が聞こえていた。
 温厚そうな笑みをたたえた若い医師は、大学病院で母の主治医と面識があると言った。なぜ、今回の「発作」が起きたのか、原因ははっきりしないものの、うまく合う薬が見つかれば、ひと月くらいで退院できるかもしれないという話に、ぼくも父もわずかながら光を見た思いがした。
 ぐったりと眠っている母を置いて、ぼくと父は病院を出た。母のいる病室はどこだろう。どの窓にも全面に飾り格子が取り付けられている。
 車に乗り込むとき、母のコートを抱えた手元から何かがすべり落ちた。沈丁花だった。つぶれてよれよれになっていたが、拾い上げると、まだかすかに甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐった。
作品名:母と歩けば 作家名:MURO