母と歩けば
「ほう、勉強で? それとも仕事?」
「前の二回は英語の勉強をしながらいろんな所を見て回りました。今回は母が連れていってくれというので二人で来たんです」
「ほう、そうですか。親孝行な息子をもって、あなたのお母さんは幸せ者だね」
「いえ、母がスポンサーでまたこの国に来られたのだから、ぼくのほうこそ幸せ者ですよ」
おじさんは褐色の顔に白い歯を見せた。
「きょうは天気がよくなりますよ。どこへ行かれます?」
「テムズ河の船でグリニッジまで行こうかと思ってます。のんびりと」
「それはいいですね。いい所をたくさんお母さんに見せてあげてくださいな」
温かいティーポットを載せたトレイを抱えて、ぼくは母のいる部屋に戻った。
下の部屋で、雨戸を開ける音がしたような気がした。時計はちょうど十二時半を指している。夢かと思い目をつむると、母の短い声が聞こえ、雨戸がぴしゃりと閉じられた。
こんな時間になんだろう。
不審に思いながらも、眠気で思考力が鈍っていて、ぼくは身を横たえたままだった。
すると、今度はすぐ隣の納戸でコトコトと物音がし始めた。母がいるに違いないが、いったい夜中に何をしているのだろう。
眠気の波が急速に遠ざかった。音を聞き逃すまいと意識を集中させる。物音がやんでしんとなると、ゆっくりスーッと部屋のドアが開くのが見えた。廊下の窓から入り込む外灯の弱い光を背にして、黒い人影が立っている。それが母であることはすぐに理解できたが、なぜか尋常でない薄気味悪さを覚え、ぼくは布団の中で動けないでいた。
暗くて表情のはっきりしない母は、無言のまま静かに手招きを始めた。
やっぱり何かがおかしい。
動悸を感じながら、ぼくは起き上がった。
「何してんの?」
自分の声がかすれているのがわかる。返事はなかった。
母について階下に下りた。
「大変だよ。コロちゃんがいなくなっちゃったんだよォ」
母は猫のコロ助の姿が見えないので、家の中をあちこち探し回っているようだった。ひどく困惑した表情で、息が荒い。目の奥がぎらぎら光っているような気がした。
ぼくは居間のコタツの中をのぞいてみた。案の定、コロ助はそこで丸くなっていた。
「ああ、よかったー。ほんと、よかったー」
母は子供のように大きな声を出して喜び、目に涙を浮かべた。
様子が変だとは思いながらも、母がさっさと自分の部屋に戻っていったので、おやすみと声をかけ、二階へ戻った。
その半年ほど前、不眠と頭痛に悩まされた母は、みずから近くの大学病院を受診し、精神神経科に通って薬を服むようになった。時折、情緒不安定になり、やたら陽気にしゃべる日があるかと思えば、台所のストーブの前で頭を抱え、うずくまるようにして動かないこともあった。また、ちょっとした発言に敏感に反応し、なぜ私ばかりを責めるのかと涙ながらに訴えるので、その急激な感情の昂ぶりに驚かされることもしばしばあった。
ぼくと父は、そうした母の姿に戸惑いながらも、更年期障害が少し重いのだろうと勝手に決めつけ、あまり深刻に受け止めてはいなかった。母は常に一人で通院していたが、担当医とのやりとりについて訊いても、その話が本当であるとするなら、医師がそれほど重症と判断しているようには思えなかった。
ベッドの中でしばらくあれこれと思考がめぐり、頭が冴えていたが、やがて再び眠りに落ちていった。どれほど時間がたったのか、次に目を覚ましたとき、階下から何かがぶつかり合う大きな音が響いてきた。
あわてて飛び起き、階段を駆け下りた。母が台所の流しの下に頭を突っ込み、狂ったように物を引っ張り出しているところだった。鍋や食器類、調味料などの入った袋や瓶などが床に散乱している。
思わず腕をつかみ何をしているのか問いただした。
「大変なんだよ! バクダンが仕かけられてるんだよ! 早く大事なもの出さないと、うちごとみんな吹っ飛んじゃう!」
母はものすごい力でぼくの手をふり払った。さらにめちゃくちゃに物をかき分け、その中から箱を見つけ出すと、あわててふたを開けた。指輪やネックレスなど宝石類の入っているらしい小箱がいくつも見えた。母はふたを閉め、それを大事そうに胸に抱えて自分の部屋に向かって走り出した。
なぜ台所の流しの下に、そんなものを隠しておいたのか考える余裕もなく、後を追って部屋に飛び込んだ。そこへ、異変に気づいた父も二階から下りてきた。
「おかしくなっちゃったんだよ。なんか訳わかんないこと言って」
母は今度は押入れを開け、大きな布団袋を力任せに引き下ろした。
「早く、早く! 爆発しちゃう、爆発しちゃうよー!」
恐怖で顔をゆがめ、切迫した調子で叫ぶ母。
「あんたたちも、ほら、早く大事なものここに入れて!」
母は布団を抱えるようにして袋から取り出すと、そこに台所から持ってきた箱を入れ、続いて足元にあった目覚まし時計を放り込んだ。
「時間よ、止まれえ!」
時計に向かって指をさしながら何度か叫んだ。そして箪笥の引き出しを開け、着物や洋服も何着か押し込んだ。
「何やってんだ。爆発なんかするわけないだろ」
しばし呆然と立ち尽くしていた父が、やっと絞りだすようにして言葉を発した。
母はそれを無視して雨戸を開けると、布団袋を引きずっていき、庭に放り出そうとした。
ぼくが布団袋に手をかけ、父は母の腕を引っ張った。
「何すんの、離してよ! 早く逃げなきゃだめって言ってんでしょ!」
必死の形相で父の手から逃れた母は庭に飛び出した。父もあわてて後を追う。
ぼくは母を挟み撃ちすべく、玄関から外へ走り出た。
「おい! どこ行くんだよ! おい!」
父の低い声が暗がりに響く。
母は全速力で庭を駆け抜けたらしく、門から出ていく父の背中の向こうに、動く影が見えた。ぼくも道路に出て、二人を追った。外灯の光の下に、裸足のまま、ピンクのパジャマ姿で逃げていく母の姿が浮かび上がった。その先の光の届かない闇に溶け込んでいきそうになったところで、父がやっと母の背中にとり付き、ぼくも行く手を阻むようにして母の前で立ち止まった。
「ちょっと、どこ連れてくのよ! 離してよ!」
母の身体をがっちりと抱いて家に戻る父もパジャマ姿で、裸足だった。
冷たい夜更けの空気に、母の抵抗する鋭い叫び声だけが吸い込まれていく。何か気配を感じ、ふと視線を上に向けた。黒い空に、淡い星の光がささやくように瞬いているのが見えた。
「まったく、清々するねえ」
広々としたテムズ河を渡る風を大きく吸い込みながら、母は歌うように抑揚をつけて言った。
風は冷たいものの、空は青く輝き、春の陽射しが船のデッキにもたっぷりと注がれている。河の水面が銀色に揺らぎ、芽吹いたばかりの岸辺の緑が目にやわらかい。ビッグベンの近くから出発した船はいくつめかの橋をくぐろうとしていた。
「ミチオは今ごろ働いてるかねえ」
「働いてるさあ。旅行なんて嫌いなんだから、どこへも行かずに一生終わりだよ。つまんないねえ」
「定年になって時間ができたら、少しは出かけるようになるんじゃない?」
「どうだかねえ。マージャンに明け暮れるんじゃないの」
母は甘い期待など抱いてはいないらしい。