小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

約束~リラの花の咲く頃に終章ⅠLove is forever

INDEX|5ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 淑妍は以前も徳宗率いる改革派に対抗する保守派の大物の左議政孫(ソン)大(テー)監(ガン)を取り込むため、莉彩を孫大監の養女にした。孫大監は徳宗の熱愛する寵姫の養父となることで、外戚としての権力を得ようとし、淑妍の頼みを呑んだのである。
 徳宗のためならば、淑妍はどこまでも冷酷になれるといった一面を持っている。
 莉彩はひたすらそれを怖れた。我が身だけならば良いが、幼い息子までをも政争に巻き込むのだけはご免だ。
 莉彩はその日の夜半、ひそかに淑妍の屋敷を出るつもりであった。荷物といっても何もない、身一つでこの時代に来たのだから。
 莉彩にとって、たった一つの財産は髪に挿したリラの簪だけだ。が、これだけは何があっても、売らない、手放さないと決めていた。
 そのときも莉彩は簪を手に取って眺めていた。アメジストの花びらをそっと手でなぞる。そろそろ黄昏刻で、聖泰は莉彩の傍らで昼寝をしている。
 安心しきったような安らいだ表情を見る度に、この子だけは何があっても守り通さなければと覚悟も新たにするのだった。
 と、扉が開く音がし、莉彩は面を上げた。
 淑妍が来たのだと思ったのである。
 ふと視線を動かした莉彩は凍りついた。
「莉彩(イチェ)」
 あろうことか、眼前に佇むのは徳宗その人だった。
 薄い赤の花が全体的に染め出された蒼いチョゴリに鮮やかな紅いチマ、髪を結い上げた莉彩はハッと眼を奪われるほど艶麗であった。子どもを生んだ女の色香が加わり、徳宗でなくとも一瞬で魅了されずにはいられないほどだ。
「逢いたかった」
 お忍びらしく、むろん王衣は纏っておらず、鐔の広い帽子に、紫のゆったりとした上下を着用している。顎の周囲に髭をたくわえたその端整な風貌はこの四年間で更に王者の風格を増したようであった。
「莉彩、どうしていた? 私はそなたに逢えぬこの四年間というもの、まるで生きながら死んでいるようなものであった。この前は奇蹟的に再会できたが、あのような幸運が二度と起こるとも思えず、毎日、悶々と過ごしておったのだぞ」
 そこで初めて徳宗の視線が動き、布団で眠っている聖泰を捉えた。
「臨尚宮にそなたがここにおると聞いたときは、思わず我が耳を疑った。莉彩、その子どもは―」
 やはり、徳宗も淑妍と同じことを問う。当然といえば、当然であったろう。四年前は一人で現代に還ったはずの莉彩が今度は子連れで現れたのだ。疑問に思わないはずがない。
「殿下(チヨナー)、お久しぶりにございます」
 莉彩は立ち上がると、両手を重ね合わせ眼の高さに持ち上げた。座って拝礼し、更に立ち上がってからもう一度、深々と頭を下げる。
 しかし、それだけで後は伏し目がちで、徳宗とまともに視線を合わせようとはしなかった。
 拝礼する莉彩を感慨深げに見つめていた徳宗も違和感に気付いたようだ。
「莉彩、いかがしたのだ?」
「殿下、もうお帰り下さいませ」
 最初、莉彩の言葉を徳宗は信じられないといった表情で聞いていた。
「莉彩、一体、どうしたのだ、何があったのだ!」
 徳宗が一歩近づいてくる。莉彩は、思わず後ろへと後退していた。すやすやと眠る子どもを守るかのように、聖泰の傍にぴったりと寄り添う。
 莉彩がこの時初めて徳宗を見た。
「四年前、私は自らこの時代を去りました。それは、殿下にこれ以上私のせいで負担をかけてはならないと思ったからにございます。私がここにいることを大妃さまがご存じになれば、また私を使って卑怯な手段で殿下に揺さぶりをおかけになるでしょう。私ごときのせいで、殿下がお苦しみになるのを見るのは辛うございます。それゆえ、私のことは、もうお忘れになって下さいますよう」
 徳宗の整った面輪は忽ちにして強ばってゆく。最早、その顔には血の気はなかった。
「何故だ、何故、そのような酷いことを私に申すのだ?」
 悲痛な響きを帯びた声で呻くように言い、次いで、眠っている聖泰に視線を移した。
「そなたがそのようなことを言う原因は、その子どもか?」
 莉彩は肯定も否定もしなかった。が、徳宗はそれを肯定の証と受け止めたようだ。
「教えてくれ、莉彩。その子は誰の子なのだ? そなたの子どもなのか」
 永遠に途切れることがないと思えるほどの沈黙が続いた。
 やがて、その不気味なほどの静寂は徳宗の唸りで終わった。
「乳母はその子どもはそなた自身の子であると申しておったが―、その父親の名は頑なに口を閉ざして、けして応えぬと申しておった。子どもが母親一人だけで生まれてくるはずがない。子どもがおるからには、当然、父親となるべき男がいるはずだ。莉彩、その子の父親は誰なのだ? よもや、あの和泉という男ではなかろうな」
 莉彩はうつむけたままの顔を上げようともせず、消え入りそうな声で応えた。
「父親の名はお応えすることはできません。国王殿下には拘わりなきことにございますゆえ」
 刹那、小さく息を呑む気配が伝わってきた。
「そういうことか」
 一人で納得したように頷いた王の瞳に妖しい焔が宿った。
「私はそなたを思い焦がれて苦しい年月を過ごしてきたというのに、そなたは私を裏切ったのか!?」
 哀しげな声音が響き、莉彩は胸が潰れそうになる。
 莉彩だって、この四年間、どれほど徳宗に逢いたいと願ったことだろう。夜半に泣きながら見る夢には、必ず煌々と輝く満月と愛しい男の笑顔が出てきた。
 それでも、我慢したのは、けして愛してはならない、どれほど恋しくても傍にいてはいけない男だからと自分に言い聞かせたからだ。
 徳宗は既に聖君としての尊崇を朝鮮中の民から受けている。世に並びなき賢君として轟き渡っている徳宗の治世には一点の曇りもあってはならない。ましてや、自分がその曇りとなるようなことは断じてあってはならないことだ。
「お願いだ、莉彩。正直に応えてくれぬか。そなたは私の妻だった女だ。いや、今でも私はそなたを我が妻だと思うている。私は、そなたが良人のある身で他の男と通ずるような女ではないと知っておる。そなたが子どもを連れているのは何故なのだ? その子の父はどこの誰なのか。私には真実を話して欲しい」
 莉彩は何か言おうとして口を動かした。
 結局、それは言葉にはならず、莉彩は小さく胸を喘がせた。
 その眼からひと粒の涙がこぼれ落ちる。
「わ、私は」
 うつむくと、か細い声で続けた。
「私は、あちらの世界に戻ってから、別の男と関係を持ちました。殿下にお逢いできない淋しさから、つい、別の殿方と拘わってしまったのです。この子は、その男との間の子どもです」
 心ない科白を次々と口に乗せる莉彩の心の方が血の涙を流している。
 大好きな男をこれ以上ないというほど容赦なく傷つけた―。
 莉彩は叶うものなら、この場から消えていなくなってしまいたかった。
「―!」
 しばらく徳宗から声はなかった。
 その精悍な頬にひとすじの涙がつたい落ちる。徳宗はしばらく眼を瞑り、何かに懸命に耐えるような表情で唇を噛んでいた。握りしめた両の拳が小刻みに震えていた。
 いかほど経ったろう。莉彩には拷問にも等しい沈黙の刻が流れ。
 ゆっくりと開いた徳宗の眼が怒りにきらめいた。莉彩に向けた笑みは焔も凍るほど冷たいものだった。