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約束~リラの花の咲く頃に終章ⅠLove is forever

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 タイムトリップの予感を憶えた時、この子の手を掴んだことは結果として正しかったのかどうか。ここに至り、莉彩は初めて後悔した。
 この時代に再び来れば、当然、淑妍にも逢う可能性はあった。淑妍が聖泰を見て、どう思うか。想像しただけで、怖ろしい。
「この子の着ていた服はとりあえず、こちらのものに着替えさせました。あのようななりでは、誰に怪しまれぬとも限りませぬから」
 莉彩が応えないのにも淑妍は追及せず、全く違うことを言った。更に淑妍は莉彩を愕かせることを言う。
「あなたをここに連れてきたのは、布商人です」
「布―商人」
 呟き、莉彩はあっと口許に手を当てた。
 初めてこの時代に飛んだその日、出逢った小柄な老人を思い出す。まるで山奥にひっそりと暮らす隠者を彷彿とさせるような老人だった。たっぷりとした顎髭とふさふさした眉は真っ白で、皺に埋もれた細い眼は穏やかな光を宿していたが、時に異様なほどの鋭さが閃く。
 観相もすると語っていた老人は、布を商う商人だと自ら語っていた。
「その者から文(ふみ)を預かっています」
 淑妍は懐から一通の書状を取り出すと、そっと差し出す。莉彩は震える手でそれを受け取った。
 縦長の和紙でできた封筒を開くと、中から一枚の紙が出てきた。莉彩は夢中でそれに視線を走らせた。

 お懐かしいお嬢さま(アツシー)
また、この時代でお目にかかれるとは、やはり儂の下手くそな観相も満更外れてはいなかったようでございますな。
 儂にはお嬢さまが再びおいでになることが端から判っておりました。
 いつか申し上げたように、強い縁で結びついた者同士というものは、いかにしても引き離すことはできぬのです。
 お嬢さまにとって何が真に大切なことなのか、ご自分の進むべき道を今一度、とくとお考えになられてはいかが?
 お嬢さまが再び儂の前へ現れたのも、これも一つの必然にございましょう。 天のお与えになった縁を是非とも大切にあそばされますように。

 莉彩は読み終えた手紙を折り畳み、胸に抱いた。閉じた眼からひとすじの涙が流れ落ちる。
「不思議な老翁でした。商人と名乗ってはいましたが、まるで学者か僧侶のような―、何と申して良いのか、とにかく並々ならぬ風格のある者でございました。その者の申すには、あなたは、その者の店の前に倒れていたとのことです。都の外れで小さな店を営む布商人だとかで、普段は店にいることよりも行商ををしていることが多いのだとか。今日の夕刻、いつものように帰ってきたところ、あなたが倒れていたゆえ、たいそう愕いたと申しておりました」
 その老人は莉彩と淑妍が知己であることを知っており、とりあえずここに連れてくれば良いと判断したそうである。
 淑妍が幾ら問うても、彼は名も名乗らず、試しに後で老人の応えた住まいを家人に訪ねさせたところ、確かに布商人らしい老人が住んでいたという住まいはあったものの、どこかに旅に出たものか、もうかれこれ数年間、その者はここに帰ってきてはいないとのことであった。
 隣家の住人の証言を裏付けるかのように、その小さな家には長らく人の住んだ形跡はなかった―。
「その者が何ゆえ、淑容さまと私の拘わりを知っていたのかは面妖ではありますが、あなたをよく存じておったようでございますから、その関係で私のことも知っていたのでしょうか」
 淑妍は小首を傾げながらも、老翁のことはたいした問題ではないと割り切っているようだ。元々、頭の切り替えも回転も早い人なのである。また、さもなければ、伏魔殿といわれる宮殿―後宮で生き抜くことはできなかっただろう。
「あなたの倒れていた傍でこの子が泣いていたそうです。私が何を訊ねても、最初は泣いてばかりだったのですが、とりあえずは、私が害をなすものではないということだけは理解してくれたようですね。子どもというのは元々、大人が愕くほどの順応力があるものです」
 と、淑妍の話題が再び聖泰に戻った。
「淑容さま、このお子は、むろん、あなたのお生みになったお子なのでしょう?」
 莉彩は小さく頷き、それから淑妍を真すぐに見つめた。
「お願いです、淑妍さま、どうかあの方にはこのことをお話しにならないで下さい」
「それは、何故?」
 流石に淑妍も愕いたように眼を瞠った。
「私がこの時代に再び現れたことも、むろん、あの子のことも、国王(チユサン)殿下(チヨナー)には知らせないで欲しいのです」
 淑妍は小さな吐息をついた。
「殿下は、あなたのことを片時たりともお忘れになってはおりません。この四年間、あなたの面影をお心に抱(いだ)かれ、側室はおろか、女官の一人をもお側にお召しにはなりませんでした。あなたにお逢いになれるとお知りになれば、どれほどお歓びでしょう」
 莉彩はうつむき、首を振る。
「私はもう殿下にはお逢いしない方が良いのです。淑妍さま、私という存在は、殿下の進まれる道の妨げになるばかりです。私がこの時代に来たと大妃さまの知るところとなれば、大妃さまはまた私を使って殿下をお苦しめになられる。それに、この子だって無事だという保証は何らありません」
「淑容さま、よもや、このお子は―」
 言いかける淑妍の言葉を莉彩が鋭く遮った。
「お願いにございます! どうか何も仰らないで下さい。この子が生まれてから三年間、私はこの子を育てることだけに専念して参りました。この子にもしものことがあれば、私も生きてはいられません。ですから、どうか、私たち母子(おやこ)をそっとしておいて頂きたいのです」
 思わず眼頭が熱くなる。零れ落ちそうになる涙を堪え、莉彩は淑妍に頭を下げた。
 そんな莉彩を淑妍は黙って見つめていた。

 それから数日が過ぎた。
 莉彩は淑妍の許に滞在していたが、一日も早くここから出ていくべきだと感じている。淑妍は今のところ莉彩の頼みをきいてくれているようだが、いつ気が変わるとも知れない。
 徳宗には逢いたかったが、我が子を身の危険に晒すことはできない。
 愕くべきことに、聖泰もまた言葉に関しては莉彩がタイムトリップしたときと全く同じ現象が起きているようであった。この時代に来るまでは日本語しか知らなかった三歳児が今ではハングル語を自在に操っている。
 ということは、聖泰もまた来るべくして、この時代へと導かれのだろうかとも思えた。
 あの老人には、莉彩がここに現れることは最初から判っていたという。確かに、彼は度々、莉彩に言っていた。
―強い縁で結びついた者同士というものは、いかにしても引き離すことはできぬのです。
 だとすれば、莉彩とまた彼女と固い縁で結ばれた徳宗の子である聖泰が二人共にこの時代に飛んだというのは、これも宿命というものなのかもしれない。
 が、何のつてもないこの時代で幼い子どもを育てることなど、現代でよりもはるかに難しそうであった。しかし、ここにいては、淑妍の政治的野心にまた自分と聖泰は利用されることになるだろう。淑妍は心優しい女人ではあるが、彼女にとって最も大切なのは我が子も同然に思っている徳宗ただ一人なのだ。