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約束~リラの花の咲く頃に終章ⅠLove is forever

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 未練は棄てて、ただ遠い時の彼方にいる徳宗の治世が安からんことを祈らねばならない。たとえ、いかほど離れていようと、莉彩の心は常に徳宗と共にあり、あの時代にある。
 莉彩は今も二人を繋ぐあのリラの簪を常に肌身離さず身につけている。惣菜屋のお仕着せ―白の割烹着にはおよそ似つかわしくない簪を後頭部で束ねた髪に挿している。
 二人にとっては想い出のこもったこの簪は莉彩にとって、我が子と生命の次に大切なものだ。これを髪に挿していれば、いつも遠く離れた徳宗の傍にいるような気になれた。
「そうね、元気でいれば、いつかきっと逢えるわ。それにね、たとえ逢えなくても、お父さんは聖泰のこと、ずっと見てるから。淋しいときには、お月さまを見てごらんなさい。お父さんも遠いどこかで、同じ月を見て聖泰を思い出してるんじゃないかな」
 わずか三歳の幼子に〝父親とは一生涯逢えない宿命なのだ〟とは到底告げられるものではない。
 いつかこの子がもっと大きくなった時、真実を告げる日もあるだろう。今はこれが応えてやれる精一杯だった。
「さあ、そろそろ急がないと、電車に遅れちゃうよ」
「うん」
 聖泰が元気に頷き、駆け出す。
 莉彩は笑いながら、息子の後ろ姿を眼で追った。ほどなく小さな駅舎が見えてくる。
 普段は人もいない無人の駅は、待つ人もおらず、ひっそりと静まり返っていた。
 駅の手前にある踏切が耳障りな音を立てて鳴り始めた。耳をつんざくような音に、莉彩はハッと眼を凝らす。
 聖泰の小さな身体が今にも線路に飛び込んでゆきそうなことに気付き、蒼白になった。一瞬、身体中の血が音を立てて逆流してゆくように思えた。
「聖泰ッ、駄目」
 叫んで疾駆する。遮断機が降り、息子の小さな身体をその腕に抱き止めたのは、まさに電車が眼前を通り過ぎる寸前のことだった。
「良かった」
 莉彩は聖泰を力一杯抱きしめる。涙が込み上げた。
 あの男の大切な忘れ形見。あの男が私に残してくれた私の宝物。どんなことがあっても、この子だけは守り通さなければならない。
 莉彩が四年前、現代に戻ってきたのは、この子を守るためでもあった。徳宗を憎悪する金(キム)大妃(テービ)の魔手が莉彩の生むであろう子に向けられることは必定であった。大妃は徳宗の大切にするものを徹底的に傷つけ、破壊する。
 聖泰に何かあったら、莉彩もまた生きてはゆけない。はるか遠い時の彼方にいるあの男と自分を結びつけるたった一つのものが息子だった。
 漸く騒がしかった音が止み、遮断機が持ち上がる。走り去ってゆく電車のテールランプが遠く小さくなってゆくのを見送りながら、莉彩は笑った。
「電車、行っちゃったね。少し寒いけど、次の電車を待とうか」
 再び息子の手を今度はしっかりと握りしめたその時、莉彩の視界が揺れた。
 それは空間―眼に映る光景がグニャリと歪んだような感じだった。莉彩は思わず手のひらでこめかみを押さえた。
 軽い目眩だろうか。振り返ってみれば、今日も一日、忙しかった。昼に自分が食事を取る暇もろくにないほど、朝八時から夜の八時まで一人で働きづめなのだ。疲れが溜まっていたとしても不思議ではない。
 やはり、三十歳になったら、疲れが溜まりやすくなるのかと考えてしまった自分を自分で笑う。
「お母さん、どうしたの?」
 聖泰が不安げに見上げてくるのに、微笑む。
「何でもないのよ、少しふらついただけ」
 安心させるように言うと、再び歩き始める。
 だが、目眩は治まらなかった。
 キーンと耳鳴りまで始まって、莉彩は息子の手を思わず放し、その場に蹲った。
「お母さん、お母さん?」
 聖泰の泣きそうな声が次第に遠くなってゆく。水の中にいきなり投げ込まれたときのような圧迫感と息苦しさに襲われ、莉彩はパニック状態になった。その一方で、この感覚には確かに憶えがあると思い出す。
 そう、現代からあの時代へと時を越えるときにも、これと似た感覚を憶えた。莉彩は咄嗟に手を伸ばして息子の手を掴み、自分の方に引き寄せた。今、この子を手を放してはならないと、もう一人の自分が警告していた。
 圧迫感はどんどん増してくる。同時に耳鳴りも強く烈しくなり、莉彩は思わず途中で意識を手放した。
 意識が闇に呑み込まれてゆく。一面の暗闇の中で、莉彩は確かに見た。
 頭上に煌々と輝く満月。蒼ざめた満月が一条の光を投げかけている。
 妖しく輝く月を見ながら、莉彩の意識は深い底なしの闇へと転がり落ちてゆく。

 最初眼を開いた時、莉彩は自分の予感が外れてはいなかったことを知った。
 ゆっくりと眼を開き、視界が徐々に鮮明になってくるのを待つ。莉彩は絹の布団に横たわっていたようだ。刹那、ハッと弾かれたように褥に身を起こした。
―聖泰?
 息子の姿を眼で探す。時を飛ぶ直前、咄嗟に息子の手を握ったものの、それ以降、どうなったのかまでは判らない。果たして、あの子はどうなったのだろうか。
 不安と恐怖で叫び出しそうなるのを堪(こら)え、莉彩は忙しなく視線を動かした。
 その部屋にはどこか見憶えがあった。
 蓮の花を墨絵で描いた屏風、色鮮やかなピンクの座椅子と脇息。
 莉彩は慌てて周囲を見回した。やはりという想いが押し寄せる。ここはかつて莉彩が一時期―十四年前、初めてこの時代に来たときに入宮するまで過ごした部屋であることは間違いなかった。
 そう、ここは臨尚宮(イムサングン)の住まいだ。正確にいえば、臨尚宮の弟臨内官(イムネイカン)の屋敷である。
 臨内官は四年前は、内侍府で監察(カムチヤル)部長を務めていた。内官、即ち内侍(ネシ)とは宦官であり、常に国王に近侍することから絶大な権力を持っている。その影響力は大臣を凌ぐといわれるほどで、その分、朝廷からは疎んじられる存在でもあった。
 臨尚宮こと臨淑(ス)妍(ヨ)は国王徳(ドク)宗(ジヨン)の乳母を務めた女性である。かつて莉彩がこの時代にいたときは、力になってくれた頼もしい存在であった。
 が、この時代に飛んだ刹那、臨尚宮の屋敷に来るなどと都合良く事が運ぶものだろうか。莉彩が疑問に思ったその時、両開きになった部屋の扉が静かに開いた。
「お母さん(オモニ)」
 その声に、莉彩は眼を見開く。
 聖泰が莉彩の懐に飛び込んできた。頭巾で頭をすっぽりと包み、見慣れない格好をしているその子は、一見、生まれたときからこの時代で暮らしている子どものように見えるが、紛れもなく我が子であった。
「臨尚宮さま」
 莉彩は物問いたげに臨尚宮を見つめる。
 聖泰の後から現れた臨淑妍は物音を立てず、枕辺に座った。
「お久しぶりにございます、孫淑容(ソンスギヨン)さま(マーマ)」
 この呼び方で莉彩を呼ぶのは、紛れもなくはるか五百六十年前の朝鮮王国時代の人々だけだ。
「どうして、私がここに?」
 莉彩の問いに、淑妍は婉然とした笑みを刻む。
「さる者があなたをここにお連れしたのですよ」
「さる者―?」
「それは、いずれ明らかになりましょう。それよりも、淑容さま、このお子は一体」
 と、視線だけ動かし、聖泰を見つめる。
 今は淑妍の視線が、疑問が莉彩には重たかった。