さくらの正体
「総理、でも、若者の就職状況が不景気で急激に悪くなっているのはご存知では。正社員採用の枠も減ってしまったので、アルバイトや派遣社員などの非正規雇用に流れるしか生活していく道が閉ざされている現状をどうにかしないといけないと思わないのですか」
とさくらは、サユリになって問いつめた。
「自由な生き方をしたいと好きこのんで、そんな仕事を選んでいるんだろう。正社員だとつらいとかいって」
と総理もムキになって返す。
「今は20代前半の就労者の半分は非正規雇用なのですよ。全世代でも3割が非正規で。女性だけだと半分以上です。その現状が、個人が好きこのんだ結果だとお思いですか」
とサユリ。
「ええ、そんなにいるの」
と初めて知ったような驚きを見せる。
「もっと詳しい情報は、総理が任命された厚生労働大臣にお訊きになれば分かるのでは。今の日本の雇用状況は日増しに悪化する一方ですよ」
と上原サユリとして、怒りを込め話した。
--------------------------------------------------------------------------------
番組を観ていた視聴者は、皆、上野さくらの変貌ぶりに驚いた。政治には無縁の彼女が、総理相手に、雇用問題を堂々と語るなんて。口調も変わっている。声も低めで、その上、舌知らずではなく、なめらかに話す。別人のようだ。
「いやあ、いやあ、さくらさんは、しっかりした女性だね。あなたみたいな若者がいることは、まあ、実にたのもしい」とやんわりとした口調で微笑みを浮かべながら阿冒は話す。
サユリも、はっとして我にかえった。しまった、つい熱を上げてしまった。
「ところで、総理、どんな趣味をお持ちなのですか」
とさくらに戻って、話題を変えた。
番組は、とりあえず終了。今まで観たことのないさくら、つまりは地の「サユリ」の姿を目にしたディレクターなどスタッフは驚きの様子だった。マネージャーの団十郎は、「おい、まずかったよ。いくら、総理がひどいこと言うからって、君の本性だしちゃったら」と注意をした。
だが、サユリは、気が立った状態のままだ。趣味の話しを始めた後から、ずっと表面的にごまかしてきたものの、自らの内に何かが急に目覚めた気分だ。とても抑えることの出来ない何かが。
芸能プロダクションに戻ると、田母神社長が待っていると秘書に言われ、社長室に通された。田母神は無表情だった。叱られ、首になるのではと覚悟したが、
「ま、阿冒が相手なら、あんなのも無理がないだろう」と一言いうだけで素っ気なかった。
とりあえず安心して社長室を出る。サユリは家に帰ることにしたが、社長室で脱いだマフラーを取り忘れていたことを思い出し、社長室に戻ろうとした。
秘書も帰っている。社長室のドアをノックしようとしたが、ドア越しから、田母神が誰かと電話で話している声が聞こえた。「総理」という声が聞こえたので、サユリは、気になった。ドア越しでよく聞こえないが、オフィス電話を使っているので、社長室の秘書の電話機の受話器を取り、内線三者通話機能ボタンを押し、こっそり会話を聞こうとした。よく秘書が、電話会議のメモをとったりするのに使っている機能だ。サユリは、携帯電話を取りだし、音声録音機能ボタンを押し、自分の耳と共に携帯電話を受話器に近づけた。
「総理、こうなったら、いよいよ、奥の手ですね。任期切れも近い。私としても、小津が総理になって貰っては困る」
「ああ、準備は万端に整っている。検察に小津の公設秘書を政治資金規正法で逮捕させる。容疑は、しっかりでっち上げる。大騒ぎになれば、これでこっちに運が向いてくる」
「最後の手段ですね。国策捜査だと思われても、やるしかないということですかね」
「ああ、この際、きれいごとなどいってられんよ。それからな、あんたのところの小娘、わしはとんでもない恥をかいた。ただじゃすまんよ」
と総理、声を荒げて言う。
「その辺の処理はお任せ下さい。自分で育て飼い慣らしたものの処分は、自分でするのがわたしの流儀ですから」
と田母神は、さらりと答えた。
サユリは、受話器を置き、急いで、事務所を出た。
身の危険を知り怖くなったのと、急いで、このことを小津議員に知らせなければと思い必死になった。そうだ、この録音した音声をメールで小津のところに届けよう。
携帯電話のメールの設定を開いた。以前、小津から貰った小津の携帯電話のアドレスを選び、メモリーカードから先程の電話の会話が入った録音ファイルを選び、メールに添付する。
よし、送信だ。
と思いきや、携帯電話が突然、奪われた。田母神だ。
携帯をサユリの手から奪い取り、それを壁に投げつけた。携帯電話は、壁にぶつかり砕けた。
田母神が、もの凄い形相でにらんでいる。
「貴様、俺をなめるんじゃないぞ」
とドスのきいた声で言う。そして、左手でさゆりの右腕をつかみ、もう一方の右手で、サユリに平手打ちを喰らわせた。
ピシっという音が鳴り、もの凄い力で頬に激しい痛みが走った。小柄な割には、腕力はある。何と言っても、この田母神は、元自衛官だったのだ。
平手打ちで気を失いそうになる中、サユリは田母神に引っ張られた。目の前に、ワゴン車が停まった。ドアが開く。サユリは押し込まれる。必死に抵抗する。サユリの十メートル先に団十郎が、歩いているのが見えた。
声を出そうとした瞬間、サユリはワゴン車に押し込まれてしまった。
「行くぞ」
と田母神。運転席には、会ったこともない男がいる。車が発進する。
ああ、どうしよう。私は殺されるのか。田母神は、片手でサユリの腕をつかみ、片手には拳銃を持っている。
夜道を走ること、二十分ほどして、港の埠頭らしきところに着いた。外に降ろされた。辺りは、静かで暗い。倉庫街だ。サユリは、田母神と、運転をしていた中年の男に連れられ、倉庫の一つに入る。
中年の男は、倉庫の入り口で立って見張りをする。
田母神は、サユリを押し倒し、床に平伏させる。
「悪いが、ここまでだ」
とおそろしく低く張った声で言い睨みをきらす田母神。
「大金かけて育て上げた私を、あっさり殺して、捨ててしまえるの」
とサユリ、頭にきてにらみ返して言った。
「お前は、見込み違いだった。要らぬことにまで手を出しやがって、結局、かたぎの世界の人間というわけだ」
田母神は、銃口をサユリに突きつける。
絶対絶命!
「おい、やめろ」
と大声が響いた。この声は!
そして、数人の警察官が倉庫に入ってきた。
田母神が、驚き振り向いた瞬間、サユリは立ち上がり、足で田母神の拳銃に向け蹴りを入れた。拳銃が、手から離れた。そして、警官が二人、田母神を押さえる。
やったと、サユリは思った。
田母神は、手錠をかけられ、悔しい面持ちで、倉庫から連れ出される。
「大丈夫だったかい?」と目の前に救世主の男が。
小津次郎だ。心配そうな表情でサユリを見つめる。
「ええ、おかげさまで。でも、どうして?」
とサユリ、緊張が一気にほぐれ、小津に微笑みかける。