プール
僕の心は目の前の風景に戻る。
プールの世界。
ふと、足元に生きた感触を感じて下を見る。
プールの水が溢れだし、僕の裸足の足を濡らしていた。生温い温度。これが生きている命の温度なのかもしれない。
目線を前にやると、プールには変わらず千草(僕)が浮かんでいた。
僕は歩きだしていた。服が濡れるのもかまわずプールの水の中へ入っていく。僕は千草に会わなくてはいけない。僕は僕に会わなくてはいけない……。
服が体に張り付いて気持ちが悪い。なんだかおかしな感触に僕は不思議な気持ちになる。そっと、水の中は気持ちいい。どうして泳げないからって水まで嫌悪していたんだろう。
僕は千草(僕)に近づこうと必死に水をかき分けて進む。けれど、その姿は目の前に見えているのになかなか近づくことができない。千草が僕を拒絶しているのだろうか。いいや、僕が僕を、僕が千草を拒絶しているのかもしれない……。
きらきら、水面は光る。
僕は髪も肌も服も水びたしだった。びしょぬれ。けれど、あんなに嫌悪していた水が今は心地よい。
ぱしゃり、ぱしゃ。
水の中を歩きながら、僕は昔のことを思い出す。千草と僕の言葉。
闇を怖がる僕に千草は言う。
自分が千早の闇を照らす星になると。
水が嫌いで、泳げない僕に千草は言う。
自分が千早の代わりに綺麗に泳いでみせると。
上手く笑えない僕に千草は言う。
自分が千早の代わりに笑うと。太陽のように笑う、と。
そして、
僕は言った。
上手く泣けない千草の代わりに僕が泣くと。水のように泣く、と。
ああ、そうだ……。
そのとき涙がせきを切ったように溢れてきた。ぽろぽろ、ぽろぽろ。次から次へと命の水が流れてゆく。僕は泣いた。泣き続けた。
涙が水に溶けて、すべてが曖昧になってゆく。僕と千草は曖昧な人間だ。けれど、境界ははっきりとしていて、それがとても悲しかったことを思い出す。
ぱしゃ、ぱしゃ。
少しずつ、少しずつ、千草に近づく。
「千草」
「千草っ!」
僕は叫んでいた。千草に届くのかは分からない。けれど、それは悲痛な叫びだった。僕のたった一つの人の名前。大切な名前。
ようやく千草の目の前にたどり着く。千草は瞳を閉じて浮かんでいた。僕は涙を流したまま。ああ、僕も、千草も水の中ではひとつなんだ……。
僕は千草だ。千草は僕だ。千早は千草なんだ。千草は千早なんだ。
そして、この指で、この皮膚で、千草に触れようとした。
ぱしゃり。
僕は千草を抱きしめた。
たくさんの水が撥ねて、僕と千草をひとつに溶かした。
僕の涙は千草に届いただろうか……。
涙は海とプールの味がした。