紺碧塔物語
「剣士はな──騎士じゃないんだ、ソライロ。敵を倒す必要なんてない。正義を守る必要もない。悪を挫く必要も、弱きを守る必要も、自らが強く在る必要すらない。いいかソライロ。剣士にとって一番大切なのは──」
言葉が途切れる。その違和感に気付くより早く、ソライロの足は脱力し頽れていた。地面に膝を突くソライロの頭部があった空間を、ムイネイの右足が薙いでいる。結果としては回避した体勢になった──が、それだけだ。もう戦う力などほとんど残されていない。剣を支えに何とか立ち上がるソライロに、母親は柔らかく滲む苦笑いを見せた。途切れた言葉の続きを、ゆっくりと告げる。
「──自分を待つ誰かの元へ、帰ることだ」
「か……え、る?」
「そう。家へ。誰かの元へ。生きて帰る。剣士は騎士じゃない。国のために、大義のために死ぬのは剣士のやることじゃない。死んだ時点で最強の剣士と呼ばれる資格はないんだ」
最強の剣士。
おとぎ話の中でしか聞いたことのないような、子供っぽい響き。概念としても幼稚なものだろう。だがそれも母親が言えば不思議と信じてしまいそうになった──最強の剣士はいるのだと。
「最強の剣士は、負けてもいい。だが死なないんだ──絶対に、何があっても死んじゃいけない。そしてそのために、どうしようもなく必要になるものがある」
白刃が風を巻いて迫る。その軌跡を目で追うでもなく、ソライロは疲弊しきった腕を振り上げ《明けの明星》で迎え撃った。甲高い金属の悲鳴が響き渡り、敏感になった鼓膜を刺激する。一度や二度攻撃を防いだところで、ムイネイが《回閃》と呼ぶ攻撃は止まらない──彼女の言葉を借りるなら、決して安心することを許さない攻撃だ。一度防げば二撃目が、二度防げば三撃目が、必ず打ち込まれてくる。相手の体に刃を潜り込ませるまで決して止まらない闘法。
(だけど──反撃は、できる……!)
先程それは自分自身で証明した。間断なく繰り返される攻撃と防御、そこに細い糸を通すような精緻さでもって反撃を加えることはできる。生み出した隙間は悲しくなる程微少ではあったが、それでも切っ先を届けることは不可能ではない。かつて果てしない先にあると思っていた母親の力は、今はもう手の届くところにある。
(だからこそ……)
求めるのは最強ではない。
そんな気がした。
自分が求める強さは、最強の二文字にない。
「……最強の剣士は、どうしようもなく生き延びちまうんだよ──ちょうど今のおまえみたいに、偶然と必然の両方を味方につける。最強っていうのはつまり、そういうことだ」
母親の言葉をよそに、《明けの明星》と銘打たれた剣を構える。ムイネイに対し半身を見せて腰を落とし、柄を握った右手を大きく腰の後ろへと引く。自然体の前を庇うように左手が差し出された。大長剣が最も得手とする刺突を捨てて、あえて斬撃のために振りかぶる構えだ。
「私は──」
呟きは意味を為さず、遠雷に紛れて消える。
明けの明星──ミッドナイトと銘打たれた、敵どころか所有者の命すら吸い尽くし続けてきた忌むべき魔剣。
その刀身へと意識を這わせる。
ムイネイはどういうわけか待ってくれているようだった。
侮るでもなく、かといって必要以上に警戒もせず、ただ軽く左半身を見せるだけの自然体でこちらをじっと見詰めている。ただ立っているだけでも息苦しくなる程の圧迫感は変わらない。童顔と短身痩躯にも関わらず、ムイネイはまるで夜闇の全てを圧倒するように立ち尽くしている。
殺意などというものに形があるのだとしたら、まさに今の母親のような姿をしているのだろうと、そんな確信すら芽生えていた。
相対しているだけで絶望する。
数度剣を交えただけで敗北を悟る。
さながら死を支配するようなその眼差しが、戦う気概を容赦なく奪い去っていく。
だけど、それでも──何があったとしても、
「私は負けない! 何があっても! 私の強さは──最強の地平より遠くを目指す!」
真正面に対峙して絶叫する。
瞬間、凄まじい衝撃に吹き飛ばされた。
視界が空転し、顔面から泥中に叩き付けられる。何もかもを閉ざそうとする重さが瞼の上にのしかかる。五感を包み込むのは圧倒的な睡魔だった。暗闇の中で溺れるような錯覚に、ソライロの最も原始的な感情──つまりは恐怖といったものが、必死の抵抗を示す。
ぬかるむ土を掴んで立ち上がると、目の前にあるのは掌底を突き出した構えのまま硬直しているムイネイの姿だった。五指を第二関節で折り曲げ、驚く程綺麗な形で手首を固定している。鳩尾から背中まで貫通する痛みに、ようやく自分が打たれたのが腹部なのだと気付いた。
痛みが呼吸を阻害する。鼻血が勢いよく溢れ出し、無駄に膨らんだ脂肪の塊まで伝った。確かめることはできないが、どうやら耳朶までも出血しているらしい──耳たぶから首筋まで、鈍い熱を感じる。ただの打撃ではなかった。骨にも筋肉にも痛みはないのに、内臓だけが異常な激痛を訴えている。直接体内に掌底を叩き込むような一撃だった。
「……内臓系に衝撃を通して、まだ立ち上がるかい……ソライロ」
「当然──です!」
再び先程と同じ構えをとる。恐れていた追撃はなかった。
もともと掌底は体術の中では決して有効な技ではない。掌という広範囲で受け止める衝撃に対し、人間の手首はあまりにも脆すぎるためだ。体は無意識のうちに力を加減し、最大限の威力を振り絞ることは難しい。顎の先端に当てて脳を揺らす──とはよく言われることだが、実際そんな小さい打点を狙うぐらいなら拳で打ち抜いた方が遙かに効率的だ。
それでもあえて掌底で打ってきた理由が、つまりはムイネイの言う内臓系に衝撃を通すということなのだろう。
息を潜める。今はもう呼吸すら苦痛だった。
世界に存在する全ての感覚から切り離されたような心地を味わいながら、慎重に問いかける。
「お母様は……」
視界が揺らいだ。全身のどこが痛んでいるのかもわからない。気を抜けばそれだけで意識が飛んでしまいそうになるのを懸命に押し留め、言葉を続ける。
「お母様は、最強の剣士を目指していたのですか?」
■ □ ■ □ ■
「──お母様は……《最悪》と、そして《剣神》と呼ばれていた。それは、最強に等しい力を有していたと、そういうこと……だったのですよね?」
「一時期はな」
即答はひどく低い声で返された。
「だけど、無理だった。最強の剣士にはなれねえさ。酒飲みの医者が精々だ」
「……なら──どうして、戦いを教えてくれるんですか?」
「おまえの手に、全ての選択肢を取り戻すためだよ」
ムイネイは青い瞳を細めた。
神に祈るような面持ちで告げてくる。
「押し付けられた使命とか運命とか、他に選ぶことのできない選択肢とか……何でかね、おまえは真面目過ぎでしょや。そんなモンに振り回されてなあ」
「……私を捕らえる全てを壊して、何もかも台なしになるまでひっくり返す……そうする、つもりなんですの?」
「ああそうだ。考えたり悩んだりするのは頭のいい連中に任せるさ。私みたいな馬鹿がやるのはたった一つ。縦横無尽に暴れ回って──賢い奴らの目論見ごと、台なしにしてやることだ」