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紺碧塔物語

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 他者への庇護欲が小さく、だからこそ自身に向ける庇護欲はより微少だ。痛みを痛みとして認識せず、ただ一秒命を継ぎ足すためだけに死地へと赴くことができる。普通の人間ならば痛みや疲労によって働くはずの自制が働かない──故に、彼女は《最悪》の傭兵と呼ばれた。
 だが、その性質は、一人の男との出逢いによって大きく変化を遂げた。その男への義務感で続けていたはずの医者という仕事も、少なからず関係していたのかもしれない。ソライロと別れ、そして再開を遂げた後、ムイネイは少しずつ穏やかになっていったと思う──実の娘から見たという贔屓目を抜いても、恐らく誰もがそう思うだろう。
(お父様が変えてくださった部分を──意識的に、傭兵時代のそれに引き戻している!)
 今はもう亡い人間だったが、だからこそ影響の大きさは計り知れない。父と出会うことでムイネイはかつて失ったものを取り戻し、そして新たな幸せを手に入れた。
 その全てを一時の間振り捨て、かつて戦場で剣電弾雨の下を潜り抜けた頃の彼女に戻っている。
 欠損した倫理観と、それに伴う自虐的とすら思えるほどの鍛錬を繰り返した肉体を振りかざす、かつての母親に。
 もちろんこの異常は、ソライロの体にも遺伝している。
 だが──制御できない力など、ないも同然だ。
(認める……私は、弱い!)
 体重移動もまだうまくできない。剣を構えるとき、左をがら空きにする癖がある──これは母親も同様なのだが、ソライロはいっそう癖がひどかった。未だに相手を殺すことに慣れていないし、殺意を向けられるのも本当は怖くてたまらない。
 欠損した倫理観の穴を埋めるのは、どうしようもない臆病な心だった。
 何もかもが未知で。
 何もかもが怖くて。
 目を開けているのは、閉じれば闇が降ってくるからでしかなくて。
(なんて、弱いんでしょうね……)
 弱さは、いつでも傍にある。
 それでも。
 弱さを弱さと自覚できるなら──それはもう、欠点ではないと信じて。
「負け──ませんッ!」
 完全に開ききったた間合いを詰め、ソライロは《明けの明星》を大きく振るった。ムイネイほどの剣士なら、かわせないはずもないような鈍重さの一撃──案の定、ムイネイは僅かに体重を後ろにずらすだけの動作で切っ先から逃れる。最初から当たることなど期待もしていなかった。
(それでも──!!)
 体術を根幹にしている以上、ムイネイの攻防は距離を詰めた状態から始まる。蛇腹刀など中距離向きの武装をしていてもそれは変わらない。手足の届かない位置まで通用する体術など存在しないのだから、当然の話だ──そしてそれが当然の話である以上、大剣を使うソライロは、ムイネイに比べてリーチに優れる。牽制程度の意味しかなくとも、接敵を阻むことに意味はあった。
 薙ぎ斬り、振り下ろし、母親を真似るような止まらない剣術を繰り出しながら、ソライロは次第に剣速を落としていく。その隙をムイネイが見逃すはずもなく、急速に体の位置を変えて攻撃の間に割り込んできた。剣を完全に打ち下ろしたと同時、眼前に拳が迫る。
「っのッ!!」
 骨も折れよとばかりに身をよじり、風を裂く拳の一撃をかわす。
 掠めただけで頬の皮膚を持っていくその威力に、ソライロは心底から怖気を振るった。純然たる恐怖を呼び覚ます攻撃は、しかし拳撃だけで終わるはずもない。
 ムイネイは伸びきった腕を引き戻すでなく、そのまま肘の内側を顔面に叩き付ける形で振り抜いた。それもまたかろうじて、地面に尻もちを突く形で回避する──だが、ソライロはもうこれ以上回避の手段を持ち得ない。
(ここから……っ!)
 座り込むだけではない。
 寝転がるように体を倒し、ソライロは倒れ込む勢いとは正反対の力を振り絞って剣を跳ね上げた。不自然な姿勢は、剣を引ききることを困難にする。切ることによるダメージは期待できない──だが、超重量を誇る《明けの明星》は、ただ叩き付けるだけでも充分すぎる威力を発揮した。肘を振り切り完全に無防備になったムイネイの体をすくいあげるように、分厚い刃が迫る。
「これなら、防げませんわっ!」
 競技剣術には決してない、戦場で自然と体得した戦い方。相手に悟られない程度に剣速を殺し、割り込んできた攻撃に対して更にカウンターの一撃を打ち込む。どれほど体勢が崩れてしまっても、相手は必ず攻撃後の隙を晒している以上、かなりのダメージを期待できた。実際ソライロのように小柄な剣士は、真正面からの打ち合いに向いていない。速度と策こそが己の刃を敵の心臓へ突き立てる鍵になる。
 両腕に全霊の力を込め、剣を加速させる。いかに技量の差があろうとも、この一撃だけは防げない──

「……これが、『戦い』だ」

 ──その、はずだった。

(な……!?)
 剣は、確かにムイネイに届いた。反射的なものだろう、咄嗟に伸びた腕が刃に触れる。
 そしてその瞬間、込めた威力が一気に減殺されるのを感じた。
 掌で刃を包み込み、ムイネイは剣の狙いをほんの少しだけ左にずらす。それと同時、針の穴を通すような精密さで力を加え、振り抜く勢いを殺していった。虚空を力なく薙いだ剣を呆然と見つめ、ソライロが一瞬意識をムイネイから逸らす。
 気が付いたときには、脇腹に蹴り足がめり込んでいた。
 肺から一斉に酸素が逃げ出していく。呼吸するだけで全身に激痛が走った。
「がはぁっ……!?」
「ソライロ。この世に避けられねぇ攻撃なんざありゃしねえよ。私のこの体術──《回閃》だって、攻撃と防御を全く同時に行ってるわけじゃない。ただ兼用してるってだけでな。攻撃も防御も、どっちも中途半端になっちまう」
 肋骨をへし折られたかもしれないと思うほどの激痛に悶え、ソライロは胸中で唾棄した。中途半端どころではない。簡易防具を微塵に砕くような蹴りの一撃は、中途半端とは決して言わないだろう。
 だが、そんなこちらの呪詛を無視して、ムイネイは淡々と響く言葉を連ねていく。
「だから安心するな。戦っている最中に、安心だけは絶対にしちゃ駄目だ。これなら倒せるとか、今度こそ当たるとか、そういうモンが剣士を殺すんだよ」
 瞬間。空気の折れる音が鼓膜を打った。
 反応は、意識してのものではない。ましてや無意識の反応などという不確かなものでもない。言ってみればそれはただの偶然だった。痛みにのたうち回る体が、偶然ムイネイの振り下ろした拳を避けたに過ぎない。泥中に埋もれた拳を無造作に引き抜き、母はくすりと喉の奥で失笑を弾けさせる。
「……剣士にとって、一番大事なことって、何だかわかるか?」
 痙攣する横隔膜を叱咤し、朱の混じる唾液を吐き出して立ち上がる。何かを答えなければいけないという焦燥感だけが先走り、言葉にすることができない。そもそも声帯を震わせるほどの余力があるわけでもなく、ただソライロは肺から逃げ出していく酸素を必死に押し止めた。口の中が無数の裂傷に覆われている。今はむしろその痛みがありがたかった。この重傷で意識を失わずに済んでいるのは、全身を間断なく苛む激痛のせいだ。
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司