紺碧塔物語
決して行為自体の疾駆ではない。ある程度の経験を積んだ剣士ならば、さしたる労もなくムイネイの動きを見破ることができるだろう。
だがそれでも攻撃を防ぐことができなかったのは、行為と行為の間が疾駆するせいだった。川の流れのように淀みなく、止まることのない動きは、剣士ならば必ず生まれるはずの隙──攻撃後の姿勢の崩れ──を殺している。攻撃は防御に、防御は攻撃に、一瞬の停滞もなく移り変わっていく──実質途切れることのない攻撃など、到底防ぎきれるようなものではない。
「ソライロ……私ゃあ、つくづく駄目な母親だと思うよ。おまえに何もしてやれんかったって、……そう、思うよ」
幽鬼のように立ち尽くし、ムイネイが掠れた声で語り始める。
痛みで身動きもできないソライロは、嵐に打たれながら、滑落する言葉に耳を傾けた。
母親という言葉に、必要以上の期待をしたことは一度もない。戦場に生まれ育ったソライロの、それが偽らざる本音だった。軍医として従軍する傍ら、自らも前線に立つことの多かった母親を、ソライロはいつもぼんやりとした安心感と共に待っていたのだ。
不安を覚えたことはない。物心つくずっと以前から、ムイネイはどんな戦場に行っても必ず帰ってくるのだという確信があった。宿舎でただ待つのはあまりにも退屈で、半ば暇潰しのために料理を習ってみたこともある。
そんな経緯があったせいだろう──時間が経つにつれ、自然と家の中のことはソライロがとりしきるようになっていた。数少ない友達の話す《母親》のやっていることを、まだ十歳にも満たない少女がやるようになったのだ。
それでムイネイを恨んだことはない。
そういう母親の娘として生まれたのだからと、妙な納得をしていた。
だから母親が突然ふらりと姿を消したときも、ソライロはさして驚きもしなかったのだ。
幼いながらに剣士として名を知られ始めていた頃のことだったので、これからは一人で生きていけという、その程度のことだろうと思っていた。
(そして……琥珀宮で、また会った)
あのときからかもしれない。
母親と──ムイネイと、素直に接することができなくなったのは。
もとから、まともな家庭だったとは到底言い難いにせよ──母親との溝を深めてしまったのは、この国に来てからだ。
何年かぶりに会ったというのに、変わらなすぎるムイネイのせいかもしれない。
何年も時が経ってしまい、変わってしまった自分のせいかもしれない。
ずっと押し隠していたが、ムイネイに《母親》を求めていたせいかもしれない。
どんな理由だったにせよ、ソライロは実の母親であるムイネイと、素直に話すことができなくなったのだ。
それでも──
「──それでも私は、いい母親でありたいって、そう思ってる。おまえにいいことがありますようにって……ずっと思ってる」
──ムイネイは、変わらず《母親》でいてくれた。
「今、世界に何が起きてるのかなんて、私には知ったこっちゃねえ。どこの国同士が喧嘩しようが、街一個滅びようが、封印されていた魔王が蘇って侵略軍を組織し始めようが、そんなのは私の人生に一切関係ないべさ? 関係ないんだ。だから──私は、どんなことがあっても、おまえだけは守る──いつでも気持ちを前に出せるよう、どんなときでも見てる」
そして──ソライロもまた。
「お、かあ、さま」
うわごとのように零れた言葉こそが、真実なのだろう。
自分が潮・ソライロである限り、ずっと《母親》の背中を見続けるのだという……悲しいほど透き通った、一点の曇りもない真実。
「……だから、ソライロ──私がおまえに教えてやれるたった一つのことを、伝えるな……?」
月光が収縮した。嵐の運んできたぶ厚い雲が月を隠す。たった一条大地に落ちる光明を浴びて、ムイネイはゆっくりと両手を広げた。神託を下す預言者のような格好で、告げる──。
「おまえに『戦う』ことの『意味』を教えてやる」
■ □ ■ □ ■
どの国の庇護を受けるでもない山間に、小さな村があった。
最初に村を拓いたのは、何らかの事情で東方を逃れてきた人間達だったらしい。彼らは望んで人里との交流を断ち、世間から孤立した。長い閉塞した生活は彼らから著しく会話能力、理解能力を奪い、さすがに村の将来を危ぶんだ村長が一人の教師を連れてきた頃には、大半の村人は自分の名前すら言えないほどだったという。
苦労の末に何とか言葉を取り戻したものの、結局村が外部に対して開かれることはなかった。何度か忌まわしい罪を重ね、その罪から逃れようとするうち、村人達は自然と秘密主義を体得していった──それは閉鎖された中だけでしか生きていくことのできない孤立主義とあいまって、次第に村を狂わせていくことになる。
幾世代かの後、村人達は外部の血を受け容れることすら拒み始めた。
結果として繰り返される近親婚媾の果てに、生まれてくる子供達には様々な障害が表れるようになった。村が武装盗賊団に襲われ滅びるまで、この風習は続いた。
そして──犯し続けた積悪は、ついにある少女の体内で結実することになる。
(お母様……ムイネイ──《無為なる音色》!!)
貧しい農家の末子として、誰からも望まれずに生まれた──潮・ムイネイ。
特に激しい近親婚の血を受け継いだ彼女の体は、極度の異常によって形成されていた。
「せぇえッ!」
裂帛の気合いと共に繰り出したムイネイの蹴り足が、そびえ立つ枯木の表面をえぐりとる。かろうじてかわすことはできたものの、ソライロは異様な威力に森が震えるのを感じていた。噴き出す冷や汗を拭うこともできないまま、剣を構えて背後へと飛びすさる。
蛇腹刀や糸切り、投げナイフなどを多用するせいで搦め手の剣士と思われがちだが、ムイネイの本領はどちらかと言えば体術にあった。剣術はそこから派生する、いわば小手先の技術に過ぎない。
終わることのない連撃が、大地を抉り木々を散らす。
一撃一撃が圧倒的に重すぎる──地形すら変化させかねない猛威に、ソライロは体の奥が冷たくなっていくのを感じた。
(心身異常とはいえ──反則ですわっ!)
心身異常──超常的な鍛錬によってもたらされる、身体とそれを支える精神の変調。
通常より遙かに高い密度の骨と、鋼のような繊維によって束ねられた筋肉。内臓機能も普通の人間を大きく上回り、特にムイネイは心肺機能が特化されていた。幼少時からの戦場経験が、彼女の戦闘能力を尋常ならざるものに仕上げている──先のことなど一切無視して鍛え上げれば、人間はこうまで突出できるという生きた見本だった。
さらには、遺伝によってもたらされた生命倫理の欠如が、その異常な能力に拍車をかけている。
もともとムイネイには、人の体を気遣うといった感情が乏しい──ほとんど先天的に欠如していると言っても過言ではないだろう。本来それらの感情を育むべき幼児期を劣悪な環境下で過ごしたせいもあり、結果として人殺しの罪を犯すことに対して一切の罪悪感を抱かない人間が完成した。