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紺碧塔物語

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第二章/空の色は移り変わる


■ □ ■ □ ■

 森の中に、闇が満ちている。
 浄闇である。
 耳の奥に響くのは獣の囁き、フクロウの鳴き声、そして葉擦れの音だけだった。北のなだらかな丘陵を乗り越えた先に望む街は、すっかり灯りが消えて静まり返っている。かろうじて降り注ぐ月光に浮かび上がる琥珀宮(こはくぐう)の街並みは、生活の匂いが窺えないせいかもしれないが、どこかうら寂しく感じられた。黒々とした建物の突端が夜空の一画を削り取っている。残された暗闇はそのままの神花(かみはな)の森まで押し寄せ、頼りない月明かりを完璧に覆い隠してしまっていた。
 冷えた風がゆったりと頬を撫でて駆け抜けていく。頭上には厚い雲が垂れ込め、時折走る稲妻は森の色彩を明滅させた。転がる倒木は、落雷を受けたせいか、奇妙にねじれあがっている。植物は凄まじいほどに密生し、雑草がはびこり、鬱蒼とした樹木が周囲を取り囲んでいた。僅かに足を動かせば、不自然なほどに深く抉られた大地が歩行をすら妨げる。墓碑らしい石塊を踏みつけることもあったが、それを気にする余裕など空色にあるはずもなかった。激しく跳ねる心臓を落ち着けることもできず、ただ荒々しく息を吐く。
 雲間に覗いた欠けゆく月が、陰鬱な茂みを微かに照らした。引き剥がされた闇の裏側から、小さな人影が一つ浮かび上がる──本当に小さな、子供のような人影。明るい海に似た色の髪と瞳、白磁の肌が青ざめた光の下に露わになる。細く伸びた四肢には、はっきりそうと見てとれるほどの力が漲っていた。霊気じみた威圧が、立ち尽くす女性の全身から立ち上っている──思わず霊気などというものを信じてしまいそうになる力が。
 潮(うしお)・ムイネイという名前の……大きすぎる、力。
(呑まれてる……!!)
 存在しないはずの気配まで勝手に想像し、気圧されている。剣を握る手に汗が滲んだ。我知らず後退ろうとする足を叱咤し、強く地面に縫い止める。
 今、相手の目に自分の姿がどう映っているのか、そんなくだらないことがひどく気になった。何年も慣れ親しんだ、幼い少女としてしか映っていないのだろうか──それとも、成長した一人の剣士として見られているのだろうか?
 空色の長い髪と瞳に、白雪の肌──鉄塊としか言い様のない巨大な剣さえ持っていなければ、ただの小娘にしか見えない姿。
 潮・ソライロという名前を脳裏に浮かべ、皮肉な笑みを形作る。数多の傭兵が集う天球国(まほろば)において《最悪》と──決して最強ではなく、最悪と──、そう呼ばれた女の……娘。
 剣を捨て医者として身を立てた母を持ちながら、未だその力に怯えている。
「まさしく、最悪ですわね……!」
 ムイネイが小さく息を吸い込んだ。距離を詰められたわけでもないのに、一瞬で威圧感が膨れ上がる。
(この後に──来る!!)
 来る、とわかっている。
 事実、何度も同じように打ち倒されたのだ。
 だが──それでも、防げない!
「──ふッ!」
 鋭敏に研ぎ澄まされた呼気の音。何の前触れもなく彼我の距離を詰めたムイネイの体が、腰を軸にして大きく沈み込む。半身を晒した姿勢で両の手足を前後に広げ、異様な低さまで腰を落とす。奇妙な構えから繰り出された掌底の一撃は、両手を交差するソライロの防御をあっさりと貫通していた。
「か、はッ……!?」
 獣じみた悲鳴をあげ、ソライロはぬかるむ地面へと突き倒された。衝撃で体がバウンドする。その勢いを借りて跳ね起き、大剣を──《明けの明星(ミツドナイト)》と銘打たれたそれを振り回すが、既にムイネイは切っ先の届かない位置にまで後退していた。左手には多関節の刀身を持つ蛇腹刀を構え、右手には黒い鋼線で括られた短刃が絡みついている。いつもの白衣を着ているせいで一見してはわからないが、急所部位を守るための防具も身につけているはずだった。服の盛り上がり方から察するに、薬液の入った小瓶や短剣、投擲用の短剣も装備している可能性が高い。
 ソライロにも馴染みの深い、完全な戦争装備だ。
「……見てるだけで倒せる敵なんかいねえぞ」
 ぞくり、と。
 全身が発汗し、筋肉が一斉に危機を訴える。
 逃げろと叫ぶ心も虚しい──逃げられるはずがないとわかりきっているのだから。
 ねじくれ、のたうつ蛇のように張り巡らされた枝葉の間を縫って、蒼い影が駆けた。障害物も足場の悪さも、ムイネイの両足を止めることができない。逆に、ムイネイは完全に地の利を得ていた。
(防げない──!?)
 行為自体が速いわけではない。
 幼少時、売春宿に売り飛ばされたというムイネイは、そこで足の腱を傷つけられている。その後ソライロの実父にあたる医者の手で治療を受け、簡単な駆け足程度ならできるようになった。だが全力疾走などは望むべくもないし、長時間の歩行すら困難なはずだった。
 まして激しい戦闘になど、体がついていくはずもない。
 だからこそ、行為自体はひどく鈍重だった。
 体重の分配も足運びも、重心の移動すら簡単に視認できる。
 しかし──それでも、防げない。
「せぇッ!」
 ムイネイの気勢と同時に蛇腹刀の刀身が分解し、半円の軌道を描いて迫り来る。高速の刃を前に、ソライロは深く身を屈め、極端な前傾姿勢をとって走り出した。
 多関節の刀身は射程が長いぶん、巻き取りの動作に時間がかかる。著しく連撃能力に欠けた武器なのだ。一度でもよけてしまえば、ほとんど次撃の心配はない。もともと奇襲性の高いこの武器は、用心してさえいればそれほど回避は困難ではなかった。
 行き過ぎる刃の下を潜り抜け、一気に接近を試みる。
(この、次……!)
 懐に潜り込もうとした刹那、眼前を銀の光が薙いだ。
 短刃に鋼線を結びつけた武器──ムイネイは単純に糸切りなどと呼んでいたが──の描いた致命の曲線。手元の操作で自在に角度を変える上、鋼線だけでも充分な威力を発揮する。さすがに一撃で仕留めるほどの力はないが、そのぶん回避も防御も極端に困難な代物だった。
(この二段構えを抜ければ──!)
 深く息を吸い込み、ソライロはほとんど転倒寸前にまで前傾した。頭上を薙ぎ切る糸切りに、髪が幾筋か切り払われる。生い茂る雑草が隠す視界の向こうに、両手の武器をそれぞれ引き戻そうとするムイネイの姿があった。剣を横薙ぎに構え、両腕に力を漲らせる。
「これで──!」
「──これでもまだ、届かない」
 空が、破けた。
 夜空の支えを失い、凍雨が沛然(はいぜん)と降り始める。季節外れの嵐が森を打ち、激しい雷鳴を轟かせた。
 そして──ソライロが気付いたときには、荒れ狂う夜空を見上げている。雨に濡れる体も今は気にならない。激痛を繰り返し受け続けたせいで、全身の感覚が遊離しかけていた。
 最後の一撃が、見えなかった。
 痛みの発生源を背中に特定し、ようやく自分が背後からの一撃を受けたのだと理解する。倒される寸前、ムイネイが嵐の中心のように上半身を大きくねじるのが見えた。恐らくは自分の体を支点にして武器を急激に巻き取り、その勢いを借りて背中を打ったのだろうが──突然ムイネイが魔法を使ったのだと言われても、今のソライロなら信じただろう。
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司