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紺碧塔物語

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第一章/ただ灰色の空に叫ぶだけ


■ □ ■ □ ■

「──前期試験は来月実施することになりました」
 そう告げてきた彼女の発言はあまりに唐突で、突拍子のないものだった。
 もっとも、彼女はいつだって唐突に現れ、唐突な話題を振ってくる人間だったようにも思う。
 彼女──イド・カンタトゥムは、その名前ほどには自己主張の強くない人間だった。一見すると事務員のような容貌は、実際には相応に化粧を乗せるだけで数段見栄えする。怜悧な双眼は視点が曖昧で、いまいちどこを見ているのか判断しにくいことが多かった。授業中である今ですら、その曖昧さには変化がない。
 黒板を見詰めているのか、窓の外に広がる雑多な街並みか、揃いの青い運動着に身を包んだ四人の生徒達か。あるいは──これが最も可能性として高くはあったが──彼女が両手に持つ、二本の剣を見下ろしているのかもしれない。
 右手には刀身およそ百二十センチ、細く鋭い刺突用の長剣──長針(ミニツツハンド)と、左手には刀身およそ六十センチ、肉厚で斬撃用の短剣──短針(アワーハンド)。
 学園でも随一の武芸者として恐れられるイドの代名詞でもある二振りの剣──《刻みの傾斜(トゥールビヨン)》は、勿論訓練用に刃が潰された代替品を使用している。
 そしてこれも当然の話だが、訓練用だからといって安全なわけではない。
 突かれ、もしくは切り払われれば、当然打撲なり骨折なりの傷を負わせることはできるのだ。最悪の可能性として、訓練中の事故で死ぬこともあり得る。事実この女教師は過去に二人、生徒を絶命させたことがあると認めていた。過ちを恥じてはいるのだろうが、隠してはいない。
 イドは両手に剣を握ったまま、黒板の前から動こうともしなかった。
 特に二刀を構えているわけではない。腕はだらりと体の両脇に垂れ下がり、切っ先は地面を向いていた。理由は簡単だ──つまるところ、切っ先を向けるべき敵がいないのである。
 数秒前まで敵であったはずの自分達は教室の床に寝転がり、ある者は失神し、ある者は苦悶に呻いていた。どちらが幸運かと聞かれれば、前者の方が遙かに幸運だと答えるだろう。柄で横隔膜を強打され、息を吸うごとに激痛を味わい続けている今などは、特に強くそう思える。
「詳しい試験内容は未定ですが、例年通りであれば、筆記三割、実技三割、公開試技四割の配点になります……ここで質問しましょうか。イオニス」
「──は、い……」
 懸命に呼吸を整えながら、応じる。それで評価が上がるわけでもないのだが、少なくともこれ以上減点されることはないだろう。
 ──ゼロ点だったら、どっちも同じことだけどな……。
 諦めにも似た感情が浮かぶのを感じながら、それでもイオニスは何とかその場に立ち上がった。がくん、とすぐに膝が崩れて座り込んでしまうが、寝転んでいるよりはましだろうと自分に言い聞かせる。
 ふと、あの冷酷な女教師の目に自分の姿がどう映っているのか、聞いてみたくなった。恐らくは、見たままそのままで答えてくるのだろう。相変わらずの中肉中背、いつも通りの凶相、散発とは無縁の長い黒髪──つまるところ、いつもと変わらない姿だと。
 変化を挙げるとするなら、散々打ちのめされた傷跡が、全身に刻まれていることだろうか。これもまた、いつも通りと言ってしまえばそれまでの話だ。傷を負わせた張本人は、ちょうど鉄のような無表情で唇を解いたところだった。
「イオニス。私達は、何のために生きているのでしょう?」
 哲学的な問いではないとわかっていた。
 だからこそ、一拍の間も置かずに答える。
「──騎士叙勲を受け、あまねく敵対者を撃破し、王都の治安を維持するためです」
「……大袈裟な表現ですね。まあ、正解にしておきますが……それでは続けてイオニス。私達は、何から、どうやって王都の治安とやらを守るのですか?」
「現時点で最大の脅威は、隣国であるレパラント連邦です。俺達は王に心臓を捧げ、鼓動が止まらない限りは戦い続ける義務を負います」
「……それもまあ、大袈裟ですが正解、としておきましょう」
 やや不満げに告げ、は腰から提げた鞘に二刀を収めた。代わりにチョークを持つと、黒板の前に立ち、直線的な文字を書き連ねていく。
「この学園で貴方達が学ぶべきは、つまりは戦う術であり、守る術です。入学して間もない貴方達に誤解されないよう言っておきますが、生き残る術まで教えるつもりはありません。それは貴方達自らの手で勝ち取っていくしかないものです──わかっていますか、シシュカさん?」
 びくんっ、と──。
 教室の一番隅、廊下に続く扉の側で失神していたはずの少女が、名を呼ばれた途端に体を震わせた。急激に冷や汗すらかき始めている。成長期をそのまま逃したような小柄な体躯を、ぐったりと脱力したように見せてはいる──その顔も今は、ひどく微妙な表情を浮かべてはいるのだが。
 深々と嘆息し、イオニスは力なく肩を落としながらも、ゆっくりと告げる──必死に死んだふりを続けている友人、シシュカを横目に見詰めて。
「……完璧バレてるぞ、シシュカ」
「馬ッ鹿イオニス、言わなきゃ絶対バレてなかったナ──」
「──シシュカさん」
 びくびく、と。
 今度こそはっきり体を痙攣させ、シシュカは渋々と半身を起こした。教室の後ろに設置された掃除用具入れに背中を預け、シニョンに結んだ灰色の髪を左右に揺らす。注がれる冷徹な視線に耐えきれず、彼女はいかにも嫌々といった様子で口を開いた。
「……わかってます、わかってますってばナ。死にたくなければ敵を倒すしかないって、先生はそう言いたいわけですよナ? でも一個言わせて貰えれば──」
「──訓練なんだから手加減ぐらいして欲しいってことっスよ!」
 冗談のような勢いで跳ね起きた少年が、シシュカの台詞を遮って叫んだ。
 赤毛にそばかす、背高のっぽという言葉をそのまま辞書から引っ張り出してきたかのような体格。いつも皮肉げな笑みを浮かべている唇を拗ねたように尖らせて、少年──レンティ・ノックウェルは叫びの勢いを衰えさせることなく言葉を続けた。
「あっきらかに超! 本気だったじゃないスか! 戦争に出て死ぬのならともかく、訓練中に死ぬのとか超馬鹿げてるっスよ!」
「──戦争で死んでも訓練で死んでも、どちらにせよ同じことでしょう」
 あっさりと──心の底からどうでもいいと言わんばかりの表情で、鉄面皮の女教師が応じる。
「極論すれば、乗合馬車に轢かれようが勇壮な一騎打ちの末に討ち死にしようが、どちらも事実としては同じです──全く同様に価値がない、と断言できます。どちらだったにせよ不可逆的で、全く取り返しはつかない。そうであるならば、実際の戦闘中に死なれるよりも遙かに、訓練中に死んでくれた方がありがたい。そうは思いませんか?」
「いや、思いませんかって、滅茶苦茶思いませんアルヨ……」
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司