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紺碧塔物語

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 それこそ精霊だの竜だのが大手を振って闊歩していた時代──実はほんの二十年前の話なのだが──には山のように巨大な魔物も存在し、幾度となく人間種族を襲っては壊滅的な打撃をもたらしたのだというが、まさにそんな人外の暴威に晒されたとしか考えられない有様だ。
 枝の隙間から覗く森は深く、それ以上に圧力を感じさせる代物だった。具体的に何がというわけではないが、とにかく圧力だ。四方を緑に囲まれて押し潰されるような、そんな目に見えない圧迫感に苛まれながら、滅入った気分で歩を進める。燐光現象のおかげで足下の不安はなかったが、不思議と木々の隙間を埋めるように闇が塗りたくられ、視界を遮っていた。
 見たこともない形状の奇怪な虫が這いずり回り、あるいは飛び回っている──遠くから唸るような獣の声が聞こえた気がして、無意識の内に早足になっていた。
 結果として、早足がテンポを救ったことになるのか。
 ひゅか──という音がして、目の前を何かが横切った。
 高速で飛来し、脇に立つ痩せた木の幹を抉る。
 自然物ではない。
 細長く、鋭利で、明確な殺意が込められた武器。
 それが矢だと気付いたときには、既に肉体が反応を示した後だった。
 小さく飛び退き、追撃として放たれた二本の矢をかわす。それぞれが全く別の方向から放たれたものだ──最低でも襲撃者は二人いる。
 心臓が急激に早鐘を打ち始めるのを自覚しながら、テンポは小さく、だが深く、適量の酸素を肺に満たしていた。血管が脈打つ音を聞き、高揚する思考を何とか宥める。
 興奮は必要ない。
 こういった場面での興奮は必ず空回りし、もっと危機的な事態を招くことになる。
 ──落ち着け……落ち着け、テンポ・L・ランド!
 酸素と一緒に冷静さを取り込むような心地で、素早く首を巡らせる。
 密生した葉の壁とでも言うべき光景の隙間を、小柄な影が走り抜けるのが見えた。燐光の届かない位置を巧みに選び、足音も殺している。
 いわゆる物盗り、夜盗の類でないのは明らかだった──襲撃者達は、専門的な戦闘の訓練を受けている。しかもかなり高度で、実践的な。
「冗談じゃない──!」 
 他校の放った殺し屋かもしれないし、森に住む原住民かもしれない。とにかく危険なことは確かだ。
 問答無用で矢を放ってくるような連中が、危険でないはずがない。
 冷静に考える──相手は最低二人以上、森林内の移動に長け、何らかの戦闘訓練を受けた専門家(スペシヤリスト)である可能性が高い。武装は現時点で弓矢しか確認できていないが、道を切り拓くための山刀を持っているかもしれない──少なくとも、無闇に接近したからといって容易に制圧できる相手ではないだろう。何せこちらに武装と呼べるようなものは何もないのだ。
 加えて、自分は孤立無援で、唯一の同行者である兄もこの場に駆けつけてくれる可能性は限りなく皆無に等しい。
 そもそも彼が味方に加わったところで状況が好転するとも思えなかった。
 むしろ彼がもたらす被害の方が甚大だろうし、ならばいっそ自分一人の方が気は楽だ。
 つまるところ、徒手空拳で孤立無援のまま、武装した殺し屋集団を撃退しなければならないということになる。
 ──そんな無茶なこと……!
 できるわけがない、と叫び出したい気持ちを抑えて、テンポは勢いよくその場から跳ねた。
 次々と射られる矢をかわし、木の幹に身を隠す──と見せかけて、一気に幹を蹴って跳躍し、更にまた手近にあった幹を蹴って体を上方へと運んだ。体が重力の支配に負けそうになるのを堪えながら、幹の上を疾走する。
 右足で踏み込み、左足の爪先で幹を蹴り、更にまた右足を爆発させるような勢いで跳躍した。
 軽業めいた真似ならお手の物だった。訓練ならば嫌と言う程積んでいる。
 樹上に登り詰め、眼下を見下ろす。
 葉と葉の隙間から見えた人影は三つだった──どれも長身痩躯で、取り回しに自由の利く小さな弓を構えている。その切っ先が一斉にこちらを向いたところで、テンポは更に別の木へと飛び移った。
 逃げることも考えたが、襲撃者達の身のこなしを見て、あまりに分が悪いと判断する。
 彼らはこの複雑怪奇な森林を自在に駆け回り、まるで不自由を感じさせない動きでこちらを追い詰めてきている。
 この森を庭として育ったような動きだった──対してこちらはと言えば、不格好に樹上を跳ねるぐらいが精々だ。
「学生にそれ以上求められても困るってば……!」
「──求めるものなど、この地にはない」
 突如──背後から、声が聞こえた。
 四人目、と脳内で呻くよりも早く、咄嗟に高く跳躍している。
 樹上から脱して、夜空に舞った──その軌跡を追うように矢が放たれる。
 虚空で猫のように回転すると、テンポは急激に迫りつつある着地点に新たな人影を確認していた。先程見た三人より更に長躯、全身を濃緑色の戦闘服で覆っている。
 革製の戦闘服は、かつてテンポも見たことがあるものだった。
 世界間戦争──俗に言う新世界大戦、この世界の他にも無数に世界が存在するのだと大陸人民が広く知るきっかけになった戦争。その最中、森と泉を主とする世界からの来訪者達が身に着けていた戦闘服だった。
 防刃繊維が縫い込まれ、生半可な剣では傷跡一つつけることができない。
 もちろん鉄塊で殴打された衝撃は相手に伝えるし、最近になって発達した黒色火薬による銃撃までは防ぎきれない。繊維の構造上関節の動きを著しく阻害するため体力の消耗が激しく、長時間の装用には到底耐えられないような代物だった。
 時代遅れの装束を身に纏うのは、金髪の男だった。耳が長く、端整な顔立ちをしている。月明かりの下ですら容易に彼らがエルフだと知れた──何故、という疑問が頭の中で弾けたと同時、しなる枝の上に着地する。飛来した三本の矢をリュックサックで受け止めて──書類だの万年筆だのがどうなろうか知ったことか──テンポは枝が折れるよりも早く飛び、金髪の男に躍りかかっていた。
 相手の表情に微かな驚愕が浮かぶ。反撃されるなどとは思ってもいなかったのだろう──明らかに反応が遅い。
 長い金髪を掴み、相手の顔を引きずり下ろしながら膝を繰り出す。
 硬いもの同士が衝突する鈍い音を立てて、エルフの鼻骨を叩き折った──つもりだったが、実際には額で受けられたらしい。それでも相手のダメージは深刻なはずだった。皮膚が裂け鮮血が舞う。脳を揺らされた後遺症で足取りが覚束なくなった男の首に両腕を巻き付け、諸共に樹上から転落した。
 森の一角を削り取りながら、苔生した倒木の上へと落ちていく。
 男の体を下敷きにして、緩衝剤の代わりにする──小さな地響きにも似た音を立て、エルフの男が口から胃液を吐いた。その背から跳ね起き、飛び退くと同時に相手が持っていた弓を奪う。矢筒から一本だけ抜き取れた矢をつがえ、振り向きざまに射撃した。
「ぐ、ぅっ──!」
 ──当たった!
 喜びよりは驚きが勝る──弓などお遊びの射的ぐらいでしか触れたことがないのだから、幸運が過分に作用したとしか言い様がない。
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司