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紺碧塔物語

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 巨木は全て根元から薙ぎ倒され、互いに折り重なるようにその骸を晒している。見渡す限り一面の、森の墓場とでも言うべき有様は、少なくともこの森が開拓先遣隊によって発見された当初から同じような状態だったらしい。
 これだけの規模の森林であるにも関わらず、森妖精(エルフ)が暮らしていた形跡はどこにもない。近隣に暮らすエルフ達にとって、この森──瓦解密林のことは重大な禁忌であるらしく、ヴァスカフトーネという名前を聞き出すだけが、先遣隊の残した唯一の業績となった。
 倒木の隙間から新たな命が芽吹き、あるいは幹を覆い尽くし、あるいは根を絡ませ、朽ちた森の上にもう一つの森を築こうとしている。学者達曰く、同様の生命活動が百年以上の期間に渡り続いているはずなのに、新たな森の成育は極端に遅いのだという。それが何を意味するのかまでは知らないし、正直テンポからすれば興味もない。倒木に寄生するような格好の木々を縫って歩き、中心部まで探索できれば良いのだ──外れくじを引かされた生徒二名が道筋をつけ、報告書さえ提出すれば、後は教員連中がどうとでもする。
 ──私達の成績まで含めて、どうとでも、ね。
 皮肉に傾く思考を、今更止めることもできない。
 力なく持ち上げた唇の端で何とか笑みの形を作り、テンポは肺の奥に沈殿した酸素を吐き出した。防水性が高いという触れ込みの靴を頼りに、雨水の溜まったくぼみを抜けて倒木の先端へと歩いて行く。長年風雨に晒されているはずなのに、ほとんど腐食の気配も見せない大木は、足の裏が痛むほどに硬い感触を返してきた。
 無数の枝が放射状に伸びる場所まで足を運び、テンポはゆっくりと屈み込んだ。中腰の姿勢になり、幹の表面に指を触れさせる。
 冷たく、しかし仄かなしなやかさを感じさせる、湿った木。
 苔生した表面に、うっすらと四本の傷が走っている。同じ角度、同じ間隔で刻まれた傷は、それが獣の爪痕であることを知らせていた。猛獣がうろついていることについては、ひたすら不安ではあるものの疑問ではない。問題なのは、その傷が一ヶ月前についたものなのか、それともつい一時間前についたものなのか──ということだった。後者だった場合、野営の心配どころか明日の朝陽を拝めるかどうかが限りなく疑問になってしまう。
 ──さっさと移動した方がいいかな。
 野営できる場所を探してくると言ってどこかに消えた同行者は、未だに戻ってくる気配もない。まさか獣の餌になることもないだろうが、帰ってくるまで自分が無事でいられる保証もなかった。
「早く帰ってきてくんないかな……あいつ」
 ぼやき、視線をどこへともなくさまよわせる。
 ゆっくりと流れる黒雲が、からかうように月明かりをちらつかせる。
 月光は黄金の霧を滴らせ、遙か森の彼方を照らしていた。崩壊した木々の一角が金粉をまぶされたように輝き、荘厳な光景を作り出す。森全体が発光し、輝いているようだった──光は立ち上るというよりは迸り、夜空を焼き焦がすようにゆらゆらと揺らめいては形を一定のものとしない。
 綺麗、と我知らず呟いていた。
 だがこの燐光現象こそエルフ達が極度に恐れ、忌み嫌うものであるらしい。
 彼方よりの色彩(フロムビヨンド)と呼ばれ、決まって夜に発生するこの現象は、少なくとも人体には有害ではない──更に言うなら無害というわけでもない。
 全く影響がないし、そもそも何がどうなってこの光が放出されているものなのか、今になっても見当すらついていないのだ。
「……綺麗だし、有名だから、観光資源としては使えるんだろうけど」
 季節問わず発生する現象なので、客を誘うにも口実として使いやすいだろう──こんな場所まで遠出してくる観光客がいればの話ではあるが。
 提出用のレポートに書く材料としてメモに留め、テンポは改めて森の最奥部へと視線を向けた。
 あまりに広大すぎる面積のために調査は遅々として進まず──そもそもこんな人里離れた密林には誰も用がないので調査用の予算すら組まれなかった──人の手が踏み入ることを拒み続けてきた緑の魔境。
 大昔、まだこの世界が『真なる唯一の世界』と信じられていた頃には、そもそも人から顧みられることすらなかった場所だ。だからこそ七大秘境などと呼ばれ、今になってにわかに注目を集め始めている。
 ──私達以外にも、ね。
 乗合馬車組合による街道整備と、大陸沿岸を伝って行き来する航路が結ばれたことで、未開地の開拓事業はここ数年で急激にその需要を増大させている。当然無数の開拓公社が設立され、各社による競争は激化の一途を辿っていた。
 級友の一人から聞いた話だと、この七大秘境探索という課外活動もお局様による発案ではなく、他校の企画を真似たものなのだという。どこにでも無謀なことを考える馬鹿がいるものだと、当事者になるまでは呑気に考えていたものだった。
「私達以外にも、誰かこの森に来てる人がいるかもってことだけど──」
 ──こんだけ広い森だと、さすがに出くわすってこともないか。
 正直な話、敵対している教室の人間でもいいから、とにかく誰かと一緒にいたいというのが本音ではあったが。
 ──それこそ、高望みかな。
 鈍い諦念を噛み締め、倒木の上から飛び下り、柔らかく着地する。
 地面の上は背丈の低い草が群生し、どこを踏んでもしっとりと湿っているようだった。
 体重をかけるたびに僅かに沈み込む泥を踏み越え、同行者の帰還を待たずに移動を始める。一応目印の旗は残しておくが、果たして彼が本当に帰ってくるものかどうか、正直期待はしていなかった。ただでさえ度を越した放浪癖の持ち主で、深刻な方向音痴なのだから、旗を目印にこちらの居場所を推測することなどできようはずもない。むしろ一緒にいればいるだけ、この森から無事に帰還できる確率は低下していく。
 ──無能だもんね。
 昼行灯だの窓際族だのと言われ続けているあの男が、どういった理由で未だに学園に在籍できているのかはわからないし、正直知りたくもない。一応は級友であり、家族であり、血を分けたただ一人の兄ではあるのだが、だからといって無制限に何もかも許容できるといったものでもなかった。家族だからこそ私生活の区別はつけておきたい──教室では何かと一緒の仕事を任されることが多いため、余計にそう思う。
 ──兄ちゃんはそういうの気にしないんだろうけどさ。
 諦観めいたものを抱きながら歩き出し、巨人が大暴れしたような森の墓場を奥へ奥へと進んでいく。
 燐光現象は奥地に入る程鮮やかなものになり、色彩も豊かになっていった。
 森全体の温度が一層冷え込み、闇は質量を増していく。倒木の上に築かれた新たな森は頑なに視線を拒み、複雑に入り組んでは進路を乱した。浅く小刻みな呼吸を繰り返しながら、一定の歩調を保ち探索を続ける。
 野営を諦めたわけではなかったが、少なくとも一人でキャンプを張るにはもう少し安全性を確保しておきたかった。
 奥に踏み入る程、瓦解密林は崩壊の濃度を上げていく──手元の地図にペンを走らせ、白紙部分を埋めていく作業を続けながら、改めてテンポはこの森を徹底的に蹂躙した何かについて思いを馳せずにはいられなかった。
作品名:紺碧塔物語 作家名:名寄椋司