紺碧塔物語
第三章/勇者召喚状
夢を見ている。
その自覚が彼女にはあった。眠りが浅い夜はいつもそうだ──まるでもう一人の自分に上から見下ろされているような、そんな錯覚を覚えてしまう。自覚のある眠りほど不快なものはないと彼女は固く信じていた。体が動かせない。声を出せない。意識が朦朧としてはっきりしない。
ただ、影だけが踊る。
夢の中に現れるのは死者だと決まっていた。現実に干渉する力を持たない過去の亡霊──神に見放されたこの大陸において、人間は一度死ねばそこで終わる。死後の世界などというものは絶対に存在しない。だからこそ彼らは、未練がましく夢の中へと立ち現れる。
「王子! アクロンが、あの《死神》がついに氷の戦士を処刑にかけます!」
「行くぞ!」
「王子! どちらへ!?」
「《死神》の懐へ。今ここで滅びの時代を迎え入れるわけにはいかない。氷の戦士に今一度エメラルドの剣の加護を!!」
駆け出す青年の後ろ姿には確かに見覚えがある。
焼けた鉄の臭い、漏れだした死臭、鎧にこびりついた返り血──幾多の街を滅ぼし、軍隊を蹴散らしたがための勲章。決して誇ることも忘れることもできないまま、彼の両肩に重くのしかかっている。
《死神》アクロンの息子として黒い血を受け継ぎ、大陸を支配するために戦い続けてきた──そしてそれが正義なのだと信じていた男。
黒の山の影の君主、ダーガー。
黒の王アクロンの息子である彼は、しかし繰り返される暴力を到底耐えられないものと感じるようになっていたのだ。
分厚い天幕に覆われた寝床にまで、捕虜となった兵士達の断末魔が響いてくる。
自ら手にかけた者達の顔を夢に見た。
同じ旗の下に戦う仲間達は、戦士の誇りなど欠片も抱いてはいなかった。彼らはただ、圧倒的な暴力を楽しみたかっただけだ──大陸の平和を守護するはずの氷の戦士が囚われた今となっては、低級な魔物達を追い返す術すら人間達に残されてはいない。
黒の軍勢の中、彼は英雄だった。
傷つきながらも氷の戦士を打ち倒し、その手からエメラルドソードを奪ったのは彼自身なのだから。
しかし、彼は真正面から氷の戦士と戦ったわけではない。師である魔導師から譲り受けた千体のガーゴイルを率いて、氷の戦士に戦いを挑んだ。ガーゴイルのほとんどは破壊され、彼自身も深い傷を受けたものの、かろうじて勝利することができた。
彼は英雄だった。
だが──本当の英雄ではないと、彼自身は誰よりも強く感じていた。
どんな敵を前にしても怯むことなく、前進し続ける無敵の戦士。
エメラルドの剣をその手に掲げ行進する、伝説のソードマスター。
妖精の森の門を越えた大陸でただ一人の男──氷の戦士、アルワルド。
彼こそが本当の英雄なのだと、気付いていたはずだ。
「王子! 裏切るのか! 我らが《死神》の黒き血を受け継ぎながら、氷の戦士に与すると!」
「黙れ! 英雄達の怒りはこの手の中に生きている──じきに激怒の嵐が巻き起こり、予言の雷鳴が響くだろうと、《死神》に……我が父アクロン王に伝えろ!」
黒き血の流れる《死神》の血統。
だからといって、大陸全てを滅ぼしてしまおうなどとは思えない。
花の咲く丘が好きだった。
夕陽の落ちる海が好きだった。
子供達の歌う唄が、妖精の谷に伝えられる踊りが、ユニコーンの住む森が好きだった。
その全てを汚そうとするならば、例え相手が絶後の力を持つ《死神》アクロンであろうとも、切っ先を向けることにためらいなどあるはずもない。
「黒の王子ダーガー!! 暗黒の山々の連なる最強のシャドウランド、おまえがこの《死神》に仇為すというのか!」
彼は剣を振るった。
彼は敵から讃えられ、味方から罵られた。
黒の山の影の君主ダーガーの振るう剣は幾多の魔物を打ち払い、紡がれる呪文は予言の雷鳴となって、邪悪の炎を吐くドラゴンどもを滅ぼした。
ガーゴイルの軍勢を率い、聖なる都エルトナーレに結集した全ての英雄達、ソードマスターと共に《死神》の軍勢を蹴散らした。
彼の進軍は竜の雄叫びとなり、彼の燃える瞳はあらゆる種族から選び抜かれた戦士達の心臓を高らかに鼓舞した。
大災難の光景が猛り狂う風に挑戦する。
それはまさしく戦争だった──大陸に起きた七大戦争の一つにして、大陸に住まう全ての種族が《死神》に挑んだ、最大にして絶後の大戦争。
そして彼は──多大な犠牲を払いながら、
かつての師である暗黒の魔導師ラストライムを殺し、
最愛の姫サラスティを銀の酸の池に沈められ、
ガーゴイルの軍勢を打ち壊され、
大陸の聖域、夢紡ぐ都エルトナーレを焼き払われて──
──それでも、勝利したのだ。
氷の戦士アルワルドという偉大なる戦友は、《死神》アクロンを道連れに異界の深淵へと沈み込んでいった。
そしてダーガーは、彼に託されたエメラルドソードを振るい、アクロンによって召喚された《黒の棺の神》を討ち滅ぼしたのだ。
「勝利の予言はこの手に! 鋼と雷鳴、ラスト・ウィングド・ユニコーンの誇り、最強のドラゴンの叫び、戦いの神の誓い──そして騎士の運命に賭けて俺はこの剣を振るう! 風の中に息づく魅惑のシンフォニーを聞け……この夜明けこそ勝利の芽吹き! 行け、騎士達よ! 最強のウォーロードよ! エルトナーレに折り重なる英雄達の遺骸から、新たなる魂を呼び覚ませ──おまえ達に眠る全ての可能性を満たす炎こそドラゴンフレイムだ! 信じろ、信じろ、勝利の夜明けを信じるのだ!」
その勝利がもたらす、数十年後の新たな戦乱の芽吹きを既に感じ取っていたが故に。
ほんの微かな安息を求め──彼は、戦争に終止符を打った。
(……そして──彼は……ダーガーは、四修羅戦役の後……歴史から、完璧に姿を消した……)
■ □ ■ □ ■
目覚めははっきりと最悪だった。
よほど程度の悪い酒を飲んでもこうはならないというほどの酩酊を味わいながら、それでも睡魔の誘いを断ち切ってベッドから這い出る。もしもこの宿に、彼女が数ヶ月前に引っ越したばかりの新居ほどの寝心地があったなら、ここまで簡単に眠りから覚めることはできなかったかもしれない。
もともと血圧が低いせいなのか、異様に朝には弱かった。昼を回らないと頭が満足に働かない。もっとも、昼を過ぎたところで、他人の目に映る自分の頭の働きがどのようなものかまではわからなかったが。
のろのろと洗面台まで歩いていき、よく冷えた水で顔を洗う。かじかむ手も心地よく、意識は急速に覚醒を始めていた。ぼやけていた視界が焦点を結び、ようやく不快な酩酊から抜け出したことを自覚する。
冷えた手を軽く振りながら、未だ力の入りきらない両足をひきずってベッドに戻る。スプリングのよく利いたその上に腰を下ろすと、窓硝子の向こうから飛び込んでくる鳥の声に耳を傾けた。
「……風流な朝ですわね」
「おまえが風雅の類を解するとは、意外だな」
声は、唐突に降り注いだ。
ソライロはその唐突さを百年も前から予見していたかのような調子で振り向き、両の瞳を眇める。この男がかつて唐突でなかったことなどあったろうかと、他愛ない冗句を思考する余裕すらあった。