失敗の歴史を総括する小説
南進を推し進めた補佐官として龍一は、罪悪感を感じていた。しかし、近衛総理には謝罪の言葉は一切言わなかった。それは、総理大臣に対して失礼だと思ったからだ。最高責任者としての誇りを傷つけることになる。自らの責任で決定したことなのだから、助言を与えたに過ぎない補佐官が責任を感じ謝罪してはならないのだ。
長年に渡って近衛首相を見てきた龍一には辛かった。それはこういう結果になったからだけでない。近衛氏が、以前から思っていたほどの貴公子ではないことに気付かされたからだ。彼は、意志の弱い男だ。確かに斬新な考えを持っているところがあるが、非常に時流に流されやすい。大正時代、貴族院副議長として普通選挙の実現に寄与したが、それはそういう時代の流れがあったからこそなのだろう。しかし、中国との戦争が始まる直前に首相になってからは、ひたすら軍部と世論に押されてばかりであった。軍部に倒閣させられる脅しを受けていたが、しかし、あまりにも抵抗力がなさ過ぎた。
貴族ならば、威厳のある態度を示し、国益を守るため身を砕く。それが、ノーブル・オブリージェ(貴族としての義務)だと思うが。そこまで踏み込んで軍部を説得させるほどの熱意があったのかというと、それほどではなかった。結局は、育ちが良すぎた苦労知らずの軟弱男に過ぎなかったと言うことか。
一九四一年(昭和十六年)十月、近衛内閣は総辞職となり、新内閣は、それまで陸軍大臣であった東條英機を総理大臣とするものであった。
龍一は、総理補佐官の任務を解かれた。総理官邸で最後の日、近衛総理と執務室で顔を合わせた。これまでの感謝の意を述べたかったからだ。感謝の言葉を述べると、近衛氏は言った。
「私も君に感謝するよ。これまでいろいろと力になってくれた」
龍一は、気になることがあり、近衛氏に問うた。
「開戦となったらどうします?」
「ふふ、それよりも、その後に敗戦となったらどうなるかと訊くべきじゃないのかね」
近衛氏は、苦笑いを浮かべながら言った。
「そうですね」
と龍一が言うと、近衛氏は、机の引き出しから小瓶を取り出した。手の平に乗せられるほどの大きさの小瓶だ。
「この中には、青酸カリが入っている。これから肌身離さずこれを持っているよ。いずれ必要になるからね」
と近衛氏は、まるで自らの最期を予告するかのように言った。
龍一は、何も言わず、執務室を出た。
一九四一年(昭和十六年)十一月
龍一は、身の回りの様子の変化を徐々に感じ始めた。総理補佐官を辞めた後、知人の紹介で大学などの依頼による文献翻訳の仕事を自宅でするようになったが、外に出ると日々、自分がつけ回されているような気がしてならない。総理の補佐官であった時も、職業柄、多少は感じることもあったが、辞職してからは、もっと強く感じるようになった。
単なる気のせいかとも思っていたが、ある日、それは確信の持てるものということがはっきりとした。
ある日の晩、大学に翻訳した文献を収め代官山の自宅へと戻ると、誰もいないはずの自宅の窓から明かりが灯っていた。部屋の電灯をつけっぱなしにした覚えはなかった。もしかして間違って、つけ放しにしていたのかと思ったが、人影が動くのが見え即座に、身の引き締まる思いがした。ついにはっきりした。自分は狙われている。おそらく中にいる奴は、泥棒なんかではない。このまま自宅に戻って対決するつもりはない。即座、歩く方向を変え、自宅から離れようとすると、目の前に煙草を吸っている男が、電柱の影から自分を眺めている。見事に目があった。相手は、龍一をしっかりと認識しているような目つきだ。
龍一は、後ずさった。だが、背後からも誰かが近付いてくるのを感じた。それも一人や二人ではない。さっと、別の向きに体を動かした。そして、飛び込むように走った。路地の一本道をひたすら走った。すぐにその後を駆け足で追う数人の足音が響いた。
夢中で走り続ける。坂道の下り坂になった。そして、目の前は行き止まりとなり、左右に分かれている。どっちの方向に走ろうかと考えた。行き止まりの角まであと三歩というところで、目の前に自動車が止まった。
お終いだ。龍一は、さっと足を止めた。ぎりぎり車にぶつからずにすんだ。
そして、車の扉が開く。男が叫ぶ。
「乗れ、急げ」
と英語で言う。チャーリーだ。
考える間もなく龍一は乗り込んだ。そして、ドアを閉めた。車がそれと同時に急発進する。
数分後、呼吸を戻した龍一は、チャーリーに言った。
「何のつもりだ。もう私に用はないはずだぞ」
「君は反逆罪で逮捕されるところだったんだ。これから大使館に行く。そこで君を匿う」
とチャーリーは、葉巻を吸いながら言った。
アメリカ大使館のチャーリーの執務室で龍一は、チャーリーと共にいた。龍一は暖炉の前でぼおっと立っている。
チャーリーは、椅子に座り葉巻を吸っている。今や深夜となっている。外は薄暗い街灯のみで照らされている。そして、三台の車が大使館を見張っている。特別高等警察の捜査官が乗っている。皆、龍一が出てくるのをまだかまだかと待っている。逮捕状はあるが踏み込めない。ウィーン条約により、外国の大使館は敷地内において出身国と同等の主権を保障されている。
チャーリーの話しでは、龍一以外に諜報活動で利用していた日本人数人が逮捕され、その筋で龍一のことが発覚したとのことだった。
龍一は、こんな日が来るのをずっと覚悟していた。そして言った。
「自首して出る。匿うのはやめてくれ」
「何を言っているんだ? そんなことしたら君は死刑だぞ」
とチャーリー。
「そんなこと百も承知だ。あんたと関わった時から覚悟していた。これから敵になる国に助けてもらおうなんて考えるほど卑怯者じゃない。そそのかされて反逆の罪を犯してきたことには変わりないんだ。当然の報いを受けるさ」
「それでいいのか。君は死に、その後はどうなる? この国はどうなるんだ?」
「どうなるって?」
「近い内に開戦だろう。分かっての通り、日本は滅茶苦茶にされアメリカが勝つ。そして、アメリカが日本を占領統治する。そこで、軍部を取り払い、新しい日本を築くことになる。その時に君のような人材が必要になってくるだろう」
「何をバカなことを言っているんだ。そんな先のことまで、どうせ私は死ぬんだ」
龍一は、チャーリーを嘲笑い言った。チャーリーは真剣な顔となり、葉巻を灰皿に置き椅子から立ち上がった。
「いいか。君は自分の国の未来のことを考えないのか。君は愛国者だろう。だからこそ、我々に協力した。ここまで来て命を投げ出して見放すのか」
「あんたに言われたくないね。さんざん利用しておきながら」
「お互いの利益を考え行動したまでさ。そもそも、こういう結末となるのは、当初から予想できた。君は最大限防ごうと手を尽くしたが、事態の悪化に歯止めをかけることなどできなかった。こうなったら、この破局が終わった後のことを考えるべき時に来たのじゃないかね」
「私に何ができるというのか。国を裏切り破滅に手を貸した男に」
「日本にデモクラシーを復活させるのさ」
とチャーリーが思わぬ言葉を口走る。
作品名:失敗の歴史を総括する小説 作家名:かいかた・まさし